で教えてくれたのだが、お母さんが肩を入れだして、どうかお父さんに許されるようにと、何かの祝事《いわいごと》のあった時、父親やその仲間のいるところで本式に踊らして見せたので、その後、直に父親を歿《なく》なしてからも、十三、四から踊りの手ほどきをして、母親と二人で暮していけたのだがと、めずらしく身の上ばなしをしだした。
「お文《ぶん》さんという、常磐津《ときわず》の地で、地弾《じび》きをしてくれる人が、あたしを可愛がってね。小石川|伝通院《でんづういん》にいた、高名な三津江師匠のところへ連れてってくれたのだが芸は怖《こわ》い。」
と彼女はふとい息を吐いた。
「それまで、あたしが踊ってたのは、手ふりさ、踊りなんかじゃないのさ。それから、本当の踊りをしこまれた。」
「そういえばお師匠さん、高橋お伝をおやんなさったことがあるでしょ。」
「ああ、たしか明治十七年ごろだった。」
「いいえ、もっとあとで、見た人が、お伝になった、お師匠《しょ》さんの扮装《おつくり》を見て、お師匠《しょ》さんの若い時分――年増《としま》ぶりを見た気がしたって、言ってました。」
「あッしゃあ、あんなじゃなかったよ。」
苦りきったかげが唇をかすめたが、湯呑《ゆのみ》の銀の蓋《ふた》をとって、お茶を飲んでしまった。
「もっとも、あの着附《きつけ》は、あの時分の年増の気のきいた好みさ。だが、あッしばかりじゃない。全体、あの『綴合於伝仮名書《とじあわせおでんのかながき》』というのは、いつだったかねえ、お伝の所刑《しょけい》は九年ごろだったから――十一、二年ごろに菊五郎《ごだいめ》が河竹黙阿弥《かわたけもくあみ》さんに書下《かきおろ》してもらって、そうそう裁判所のところが大詰《おおづめ》に出るので、大道具|長谷川勘兵衛《かんべい》さんと、裁判所まで行ったんだよ。なんでも、その時の話に、おでんという女《ひと》は伝法《でんぽう》な毒婦じゃなくって、野暮《やぼ》な、克明な女だから、そういうふうに演《や》るっていったことだが――そうかも知れないね。お伝は、上州沼田というところの御家老の落し種で、利根《とね》の方の農家《おひゃくしょう》のところで生れたのだそうだから。」
「でも、お師匠《しょ》さん、すこし根下りの大丸髷《おおまるまげ》に、水色|鹿《が》の子《こ》の手柄で、鼈甲《べっこう》の櫛《くし》が眼に残っていますって
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