たくしの手に殘された、弱い子の行末までも思ひふけつたものだつた。彼が二ツ三ツのをり(たしか青島が陷ちた時)ある日私は車の上で、この病弱な幼兒もいつか戰があればと、輕い子を持上げて見たが、人世、すべてが戰場、鐵砲玉ばかりが怖いものではないと、心で呟いた。
その觀念が、彼を入隊させる日まで續いてゐたことをたしかめて、私は妹を見ると、その自若《じじやく》たるに安心した。そして、何處の家も、兵士を出すうちの母の心の、堪へしのぶ強さ、けなげさを思ひやるばかりだつた。いまも心に叫ぶのは、人々よ、母をいたはれといふこと、戰線に送る慰問袋は、故國日本の母をも悦ばすであらうといふことである。
底本:「隨筆 きもの」實業之日本社
1939(昭和14)年10月20日発行
1939(昭和14)年11月7日5版
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年1月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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