故小山内薫氏が説明した。直木氏は、僕はその下駄の音に惱まされて痩《やせ》るといつた。その時も赤くなつてゐた。
 あの痩てゐる人が、とてもでつかい、角力さんのやうな大きな、赤い派手な座ぶとんを敷くのが好きなやうだつた。もひとつ、でかでかだつたのは去年の夏、紀尾井町の家で見た三面鏡の鏡臺、これは私の知つてるかぎり、どの役者の樂屋用のよりも大きかつた。
 震災の時、直木氏の家は燒け、三上の家は半破《はんこは》れだつたが、その半破れの家の門内から、邸町の警護に出るところの彼は、痩身長躯に朱鞘《しゆざや》の一刀、三上は洋服に大だんびらで、しかも誠に無能な二人であつた事を思出さずに居られない。そんなこんなが底にあるものだから、ある時、直木氏がずつと傑《えら》くなつてから、この人これで仲々|傑《えら》いと、みんなの前でいつてしまつたら、苦笑もせず、なかなかこれで傑いか? と繰返してつぶやくやうに言つてゐた。
 それはいいが、去冬逢つた時に、突然と、新聞に廣告したのだが、家政婦がたつた一人しか來てくれないとこぼした。私はうくわつにも、直木氏の周圍が淋しくなつてゐる家庭の事情を忘れて、しかも金澤の家からは自働車で一時間でこられるといふので、病苦がそれほどつのつてゐるとは思はず、自業自得といつてしまつた。その時、みよりの者にでも叱られたやうに、さびしげにやさしく、だまつて頷《うなづ》いたのを、私は大變痛くこたへた。ふふ、と笑へないものがあつたのだらうと思へばいたましくてならない。
 それとも一ツは、中本たか子が松澤病院から、木挽町の文藝春秋倶樂部の下座敷に、菊池さんに引とられたときに、直木氏は倶樂部の三階に寢とまりしてゐたが、僕は怖くつて怖くつてたまらないのだ、夜中に出齒|庖丁《はうちやう》でももつて、たか子が上つて來はしないかと思ふと、眠れないのだ。と戯言のやうにいつたのを、あの時分、もうよほど衰弱してゐたのだらう。あれは、ほんとのことを言つたのであらう、と、今になつて、直木氏の斷りもいへなかつた善良な、氣の弱さの一面を思出す。
[#地から1字上げ](昭和九年四月 衆文)



底本:「草魚」サイレン社
   1935(昭和10)年7月12日初版発行
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2003年8月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(h
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング