邸は震火に失ってしまったのだ。彼女はあんまり用心深かったことがいけなかったといった。一ツひとつ、思出の深い箏《こと》も、みんな焼いてしまったが、思いがけない悦びは、芝の寺島《てらじま》(菊五郎家)氏から、衣類をもって見舞いにいった者が、家《うち》でも角の土蔵《くら》は焼けたが、母屋《おもや》や、奥蔵が残ってといって、お預りしてある箏も無事ですといった。
「おお、『若草《わかくさ》』が――」
彼女は、すぐにも、『若草』という箏の絃に触れて見たい衝動を、おさえられなかったほどだった。
数日の後、荻原一家は、神奈川台の島津春子|刀自《とじ》の家にいた。この人も長い間の、年長の友達であった。そして、小石川の浜節子の邸に落着いた。
これも、友達である三菱《みつびし》の荘田《しょうだ》氏の令嬢である宮田夫人が、牛込余丁町《うしごめよちょうまち》の邸の隣地に、朱絃舎の門標を出させる家を造ってくれた。門をはいるとすぐ雷神木《らいじんぼく》があるのを、私が、坪内先生の御邸内《おやしきない》に建った文芸協会へ誘っていった時に、その木が、お住居《すまい》の門のすぐそばにある事を話したことがあったので、浜子は、すくなからぬ奇縁のように悦んだ。
そのころ、坪内先生のお宅は、以前《もと》の文芸協会のあった方に建って、古いお住居や、お庭や、畑の方は荘田家で買いとり、小路《こみち》も新しくついていたが、まだ、先生のお家《うち》と朱絃舎の間には、空地《あきち》があって、大きな樹《き》が二、三本残っている。その樹の下のあたりで、浜子は坪内先生と行きあった。
彼女ももうだいぶ年もとったし、震災にもあったりして、気が練れて来たので、
「あたくしは、狂言座で、『浦島』を作曲させて頂きました、荻原浜子でございます。」
と名乗りかけた。
「それは珍しいお方にあった。」
と、晩年の、坪内老博士は大層よろこばれたといった。お話は尽きなかったのであろう、その後で、例年のように届けてくれる、小田原《おだわら》の道了《どうりょう》さまのお山から取りよせる栗《くり》でつくったお赤飯を、母が先生にも差上げたいといったから、持参してお話をして来たと、感慨深そうにした。
菊五郎門下の「菊葉会《きくようかい》」に、九条武子さんの作、四季のうちの「秋」に作曲したが、長安一片《ちょうあんいっぺん》の月、万戸《ばんこ》衣を擣《う》つの声……の、あの有名な唐詩の意味をよく作曲しだして、これはまとまった、情景そなわる名曲となった。私は、「虫」以来、彼女の作曲について遠ざかっていたが、「秋」の出来|栄《ばえ》をききにきてくれといわれ、出来がよかったので嬉しかった。
彼女は、近年は殆《ほとん》ど、高橋|元子《もとこ》(藤間勘素娥《ふじまかんそが》)の舞踊|茂登女会《もとめかい》に出演し、作曲していた。元子のお母さん姉妹《きょうだい》も、浜子の友だちだった。元子も朱絃舎門下で、浜子の晩年の日記は、元子を恋人とさえ呼んでいたが、育ちゆく人々は、いつまでも彼女の秘蔵弟子、愛《いと》しい人形ではいなかったから、彼女は怏々《おうおう》と楽しまない日がつづいて、そのうちに坪内先生のお棺《ひつぎ》を送り、すぐまた、五十余年を、一日も傍《かたわら》を離れなかった、浜子の老母が、ぽくりと、それこそぽくりと、早朝《あさ》顔を洗いながら、臥床《ふしど》から離れる娘へ、
「羽織をひっかけないと寒いよ。」
と世話をやきながら、そのまま、うっぷして、娘と一緒の生涯を終ってしまった。
それからの浜子、さびしそうだった浜子、来年は箏を弾いてから五十年になるから、祝いをしたいと思うといって来た浜子。小閑を得て訪《おと》ずれると、二階へともなって、箏を沢山たてた、小間《こま》の机の前でこういった。
「此処へ、上って、作曲するだけが楽しみであり、生きている気がする。」
彼女の研究は、古楽《こがく》に、洋楽に、学問の方もますます深まっているようだった。何か素晴しい作《もの》を与えて、彼女の沈みきった心の灯《ひ》を掻《か》きたてなければならない――
私がそう思った眼を見て、彼女は嬉しそうに、青い絃を張った箏をとりだした。
「これが、いつぞやお話した金井能登守《かないのとのかみ》の作の箏。」
震災に、頭だけ、うっすら火をかぶったのを、名作と知らぬ持主が、売に出したものであろう、手に入れてよく調べると、胴の真ん中に銘があったのだ。
「能登守の作は、二面しか残っていないという記録があるから、そのうちのこれは一面です。好《い》いあんばいに、天人の彫りは無事で、焦《こ》げた箇所《ところ》は波形《なみがた》だけですが、その波形は彫《ほり》でなくって、みんな、薄い板が組み合せてあるのです。」
その手のこんだ細工の波がたは、箏の縁《ふち
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