良心をもたぬ人々の間には、彼女が軌道に乗って、乗りだしてゆくのが不安にもなった。古い側の人の悦びは、困らない奥さんの芸であって、名人だとされればそれだけでよいというようなところもあった。また、あまり彼女を惜みすぎて、名物茶入れのように箱に入れて、あんまり人目に触れさせないのを、もっとも高貴であると考えるものも出来てきた。
 彼女は私にむかって、若い夫人をもって、物質のためにいらいらしていた鼓村さんのことを、よく、こんなふうにいった。
「鼓村さんが、盲目になったら、どんなに名人になるだろうに。」
と、わたしはすぐ、
「浜子のうちが金持ちでなくなると、どんなにこの人は好《よ》くなるかしれないだろう。」
 その時分のことだった。市川猿之助が、明治座で、「虫」という新舞踊を上演したいが、尺八と箏でやって見たいと相談をうけた。「空華《くうげ》」の時のこともあるし、箏は浜子に頼みたいといった。
 オー・イエス! 私は嬉しく心楽しいとき、よくこんなことをいう。猿之助もよく踊らせたい。それに、劇場で、箏を主とし、しかも、あの、芸術的香気の高い、いわゆるお賑《にぎ》やかなケレンの多くない、まことに、どっちかといえば手のこまない、一本一本|絃《いと》の音をよく聴かせようとする、テンポの早くない箏を、用いさせようというのには、よほど劇場当事者によい印象を与えていることを思わなければならない。これは、真の箏曲というものを、一般に認識させる上に、非常な良好な機会だと思った。しかし、また、冷静に考えて、「虫」であるというには、尺八《ふえ》が主になることもあり得べきことだが、尺八《ふえ》ばかりではまとめてゆけないから、ある部分は尺八《ふえ》に譲っても、結局箏を主にすることになると考えた。
 猿之助も、その間《かん》のことはよく知っている。
「浜子さんをお願いする以上、あの方の芸術、あの方を、いわゆる芸人あつかいには決してしません。あの方が、好意をもって出てくださることを、『虫』は別番附《べつばんづけ》にしますから、あの方の待遇は別に御出演下さる口上《こうじょう》を書いて添えます。座方《ざかた》からも、決して失礼のないように、楽座の席も別につくらせます。それでもいけなければ、作曲して下さるだけでもよいから。」
 私は、猿之助の気持を嬉しいと思った。そこまでに事を運び、主張を通すのは、なかなかな誠意でなければ出来ない。
「さあ、浜子さん、作曲してあげるかあげないか、出演は第二の問題。」
と、私は厳《きつ》く言った。なぜなら、この位な皮切りをした方が、彼女をお道楽芸にしておこうとするものへの、決戦的な――といおうか、大切にしている腫《はれ》ものへの大手術だと思ったからだった。
 ともあれ、その稽古所と、打合せの場処をつくらなければならない。私が、佃島《つくだじま》の家にいることがすくなくなって、新《あらた》に、母の住むようになった、鶴見《つるみ》の丘の方の家《うち》にいたし、佃島《しま》では出入りに不便でもあるので、小石川に大きな邸をもって、会計検査院に出ていたお父さんが歿《なく》なり、家督の弟|御《ご》が役の都合で地方にいるので、広い構えのなかに、ポツンと独りで暮している、若い時分は、詩文と、名筆で知られていた、浜節子という、これも浜子の古い仲良し友達で、朱絃舎の一員である人の、邸の表広間を借りることにした。
 で、便次《ついで》に、朱絃舎の門弟といえば、浜子の箏の耽美者《たんびしゃ》である、最も近しい仲の人たちばかりだった。それらが密接なつながりで垣《かき》をつくり、師の芸を盗むどころか、師の芸は伝えられないものとしてあがめている。この、浜節子さんは、年少のころから片上伸《かたかみのぶる》氏たちを友人にもっていたような、浜子には学問の友達である。彼女が泊りがけで、箏の稽古に横浜まで来る時には、リの字のようにふとんを敷くのだと笑った。節子さんは娘時代には、一|反《たん》半なくては、長い袖《そで》がとれなかったという脊高《せいたか》のっぽ、浜子は十貫にはどうしてもならなかったか細《ぼそ》い小さな体だった。私の妹の春子も、泊り込みの通い弟子で、浜子のお母さんからは料理、浜子からは箏を、ずっと教えてもらっていた。
 春のお魚《さかな》は鰆《さわら》、ひらめ、などと、ノートさせられて「今日午後六時の汽車にて帰す」と浜子が書き添え、認印《みとめ》を押してよこした年少のころ、浜子の母人《ははびと》はホクホクして、
「なんて可愛い、おとなしい子なのだろう。」
というと、浜子は、
「おしゃま猫が、いつまで猫をかぶるかしら。」
と笑ったりした。その春子も成人して、ぐっと逞《たくま》しくなってしまっていた時、「虫」の作曲の顔寄せがあったのだった。
 金屏《きんびょう》の前に、紫檀
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