ばれた来たのも知らずに弾いていたが、
 ――そんなこというて、わしゃあ――
と、言うが早いか、どんぶりの水を口にもってゆかずに、一、二|分《ぶ》苅《ぶ》りの赤い熱頭《にえあたま》の上へ、こごんだまま、ザブッとぶっかけてしまった。
 箏の上である。夕立ちのように水は落ちた。それも知らないで彼は熱中している。和三郎は小腕をまくって、ブルブル慄《ふる》えながら、冷静をとりもどそうとして、煙管《キセル》に火を点《つ》けたが、のぼせているので火皿《ほざら》の方を口へもっていった。
 みんな、座中のものは、びっくりしたように、おかしさもおかししではあるが、気の毒さで押だまってしまっていた。
 と、その時、その騒ぎと引き離れて、膝《ひざ》の上に箏尻《ことじり》を乗せ、片手で懐紙に書いた譜を見ながら弾きだしたのは浜子だった。彼女は、喧嘩《けんか》には捲《ま》きこまれず、両方の言い分をきいて、両方の譜を、その争いのなかからうつしとって、合うように接合してしまっていた。
 浜子が弾きだすと、和三郎は煙草を止《や》め、鼓村も弾く手を伏せて聴いた。
「あ! それなら好《い》い」
 そう叫んだのは和三郎だ。
「ああ、そや、そや。なんじゃ、それじゃったわい。」
と、鼓村さんも叫んだ。
 みんなの顔に、ホッとしたくつろぎが浮び、同時に誰も彼もの笑いが爆発した。
「なんのこった。」
と、呟《つぶや》きながら、和三郎は三味線をとって、浜子の方へ、せわしなくむき直った。鼓村さんは、例の首をひっこめて、きまりわるそうに、箏にかかった水の始末を、弟子たちにしてもらった。
 みんなが、急に景気よく、しゃべったり笑ったり、揶揄《やゆ》したりするなかで、浜子だけは、別天地にいる人のように、すこしも動揺されず、直《じき》に最後《しまい》まで完全につくりあげてしまった。
「ほんのこというと、まだよう、まとまっていなかったのじゃ。」
 鼓村さんは、自分だけでなら、どんなふうにも弾けるので、癖になってしまってて、困ると自分でこぼして、気持ちが軽々《かるがる》したように、
「浜子さん、有難う有難う、助かったわい。」
と機嫌よく言った。
 その時、わたしは、浜子は、ひっこみ思案なのだが、大きなものの作曲も出来ると信じた。
 千束町の喜熨斗《きのし》氏の舞台へ、私と、浜子と鼓村さんと翠扇さんとが集った時、猿之助役の大臣《おと
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