ておかなければいけないといふ古い習慣で、島田をのつけた子供の顏であつた。肩揚げも深く、前掛けをかけた平日着のままで、家のものは知らなかつたのだから、ありのままの顏が寫つてゐた。二人の友達が一枚づつ、わたしと妹とがあとの一枚をもつた。こんな氣に入つた寫眞はなかつたのだが、失つてしまつた。一人の友達は早く死に、一人の友達は別れて逢はず、その人も多分震災にあつたであらうし、古い古いことだから持つてはゐないであらう。小さな寫眞屋は、とつくにつぶれてしまつてゐる。
 きれいにとれても、賤しい顏や、意識したふうの見えるのは自分ながら厭だ。それよりもをかしいのは、寫眞は、鏡《レンズ》によるのか、といふより撮つてくれる方の眼、または趣味、またはその人の人格――ひつくるめて藝術が現はれる。つまり、わたくしならわたくしの顏の上にもその、なんといつて好いかわからない微妙なものが――それこそ、實にぽつちりであらうけれど加はるのではないかしら。假に、わたしを優しいと見た人は、優し氣なところを見だしてその角度から寫す。さういふ親切のうちで、一番、有がたいやうで迷惑なのは、わたしの髮が時流でないからとでも思ふのか、
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