御洋食ですの。わざと、洋食にいたしましたのよ、自慢の料理人でございます。軽井沢《かるいざわ》へゆきますのに連れてゆくために、特別に雇ってある人ですの。」
 その、御自慢の料理人が、腕を見せたお皿が運びだされた。
「明日《あした》は泉鏡花さんも見えるでしょうよ、あの方の厭《いや》がりそうなものを、だまって食べさせてしまうの、とてもおかしゅうござんすわ。」
 泥鼈《すっぽん》ぎらいな鏡花氏に、泥鼈の料理を食べさせた話に、誰も彼も罪なく笑わせられた。
 あたしは、鏡花さんが水がきらいで私の住んでいた佃島《つくだじま》の家《うち》が、海※[#「さんずい+粛」、第4水準2−79−21]《つなみ》に襲われたとき、ほどたってからとても渡舟《わたし》はいけないからと、やっとあの長い相生橋《あいおいばし》を渡って来てくださったことを思出したり、厭《きら》いとなったら、どんな猛暑にも雷が鳴り出すと蚊帳《かや》のなかでふとんをかぶっていられるので、ある時、奈良へ行った便次《ついで》に、唐招菩提寺《とうしょうぼだいじ》の雷|除《よ》けをもっていってあげたことを、思出したりしていた。泉さんは、厭《きら》いといえば、しん[#「しん」に傍点]から底から厭いな方《かた》だったのだ。鏡花愛読者が鏡花会をつくって作者に声援していたころだった。欣々女史も鏡花会にはいって、仲間入りの記念《しるし》にと、帯地《おびじ》とおなじに機《お》らせた裂地《きれじ》でネクタイを造られた贈りものがあったのを、幹事の一人が嬉しがって、
「此品《これ》、欣々女史の帯とおなじ裂《き》れだそうです。」
とネクタイをひっぱって見せたのを、微笑《ほほえ》ましくこれも思出していた。
 すると彼女はこういっていた。
「ええ、ええ、たいへんでしたわ。おいしいおいしいって食《たべ》てしまってから、たねを明《あか》すと、嗽《うが》いをなさるやらなにやら――」
 介添《かいぞえ》えに出ている、年増《としま》の気のきいた女中が、その時の様子を思い浮べさせるように、たまらなくおかしそうにふうッといって、袂《たもと》で口をおさえた。
 食後はもうひとつの広間へ移った。そこはばかに広かった。琴が、生田《いくた》流のも山田流のも、幾面も緋毛氈《ひもうせん》の上にならべてあった。三味線《しゃみせん》も出ている。
「こちらに、近衛家《このえけ》からか出た大層お古い、名箏《めいそう》があるようにうかがっておりましたが――」
と、はじめて浜子が声を出した。
「ああ、あれ御承知? すぐ出させましょう。」
 パチパチと手を打った。女中たちが顔を出した。浜子はちいさな声で、
「その箏《こと》でなんか弾《ひ》いて見ましょうか、真っ黒になってて、鰹節《かつぶし》みたいな古い箏だけれど、それは結構な音《ね》を出すの。」
 虫の好《い》い話で、浜子は他人《ひと》さまの名器でよき曲を、わたしの耳に残してくれようというのだ。わたしも横道《おうどう》にも、
「やってよ、箏爪《ことづめ》はなくたって好《い》い。」
「いえ、それはあるにはある。」
 浜子は、何処《どこ》からか、たしなみの箏爪の袋を出した。なるほど鰹節のように黒く幅のやや細い箏《そう》の琴が持ち出されると、膝に乗せて愛撫《あいぶ》した。毛氈の上では華やかに、もうはじまりだした。お対手《あいて》の弾手《ひきて》や三味線の方の女《ひと》も現れて来て、琴の会のような賑《にぎわ》しいことになっている。
 鼓《つづみ》の箱も運び出されて来た。鼓と謡《うたい》は堂に入《い》っているといわれている彼女《ひと》だった。
「おやおや、この分では、仕舞《しまい》まで拝見するのかもしれない。」
 浜子は、むずとして、軽く古い箏《こと》の絃《いと》に指を触れながら、そんなしゃれを言った。

       二

 その名箏《めいそう》も、あの大正十二年の大震災に灰燼《かいじん》になってしまった。そればかりではないあの黒い門もなにもかも、一切合切《いっさいがっさい》燃えてしまったのだ。軽井沢の別荘から沓掛《くつかけ》の別荘まで夏草を馬の足掻《あが》きにふみしかせ、山の初秋の風に吹かれて、彼女が颯爽《さっそう》と鞭《むち》をふっていたとき、みな灰になってしまった。
「衷《ちゅう》が、あなたならお目にかかるというから、私の部屋に寄ってよ。」
と、あの時、大囲炉裡《おおいろり》に、大茶釜《おおちゃがま》をかけた前に待っていたむつむつしたような重い口の博士は諧謔《かいぎゃく》家だったが、その人も震災後の十四年に亡《なく》なられた。
 時代ははっきりと変ってしまった。欣々女史の栄華がなくなってしまったからとて、彼女の才能は決してにせもの[#「にせもの」に傍点]ではない。だが、激しい世相の転回があった。世界的な思潮の動揺にも押しゆさぶられていた。
 せわしさに、昨日《きのう》の人を思出していられないというふうな、世の中の目まぐるしさだった。
 ある日、浜子が来て、
「そこまで、江木《えぎ》さんが来たのだけれど、急がしいといけないから、また来ますって。」
「あら、帰ったの。」
 あたしは惜《おし》がった、それはいつぞや、帰りぎわに、淡路町の邸《やしき》で、静な室を二室抜いて、彼女の篆刻《てんこく》が飾ってあったのを見せられた時、どれか上げたいといったのを、またの時にと急いで帰ったばっかりに彼女の篆刻は、あすこに並べてあっただけは、一個《ひとつ》も残らず焼失したことの惜《おし》さを、なぐさめてあげたい思いで一ぱいだったからであった。
 欣々女史の書画――篆刻の技《わざ》は、素人《しろうと》のいきをぬけて、斯道《しどう》の人にも認められていたのだ。
 丁度、私は牛込左内町《うしごめさないちょう》の坂の上にいて、『女人芸術《にょにんげいじゅつ》』という雑誌のことをしている時だった。二階の裏窓から眺めると、谷であった低地《ひくち》を越して向うの高台《たかみ》の角の邸《やしき》に、彼女は越《こ》して来ていた。浜子もあまり遠くないところに移って来ていた。
「もう直《じき》に、練馬《ねりま》の、豊島園《としまえん》の裏へつくった家《うち》へ越すので『女人芸術』のと、あなたのとの判《はん》をこしらえてあげたいって。」
 そういった浜子は、何処かさびしげだった。自分も、横浜のとても好《い》い住居《すまい》も若い時から造らせた好い箏《こと》も、なにもかも震災の難にあって、命だけたすかった、身に覚えのある痛手《いたで》なので、
「江木さんもさびしいでしょうよ。」
と、たった一人の孤独なので、此処まで来るにも、手提《てさ》げを二ツ、鍵《かぎ》やら銀行の帳面やら入れてさげてこれは大切だといったと語った。あの女性《ひと》が――と、聴くものも、いうものも、ただ顔を見合った。また、その次だった。もうその時分には、練馬の新築に越していたのだが、
「江木さんところから今朝《けさ》、真新らしい萌黄《もえぎ》から草《くさ》の大風呂敷包《おおぶろしきづつみ》がとどいたから、何がこんなに重いのかと思ったらば、土のついた薩摩芋《おいも》で。」
と、浜子はおかしがりながら、何か気にかかるふうでもあった。
 それから間もなく、彼女は自殺したのだ。昭和五年の二月二十日、京都の宿で、紋服を着て紫ちりめんの定紋《じょうもん》のついた風呂敷で顔を被《おお》って、二階の梁《はり》に首を吊《つ》っていた。
 彼女は、愛媛《えひめ》県令|関《せき》氏のおとしだねで、十六歳の女中の子に生れた。明治十年の出生であったが、もの心づいた時は、京橋区|木挽町《こびきちょう》、現今《いま》の歌舞伎座の裏にあたるところの、小さな古道具屋が養家だった。後《のち》に、養母《やしないおや》は、江木家へ引きとられていたが、養家では、生みの男の子には錺職《かざりしょく》ぐらいしか覚《おぼ》えさせなかったが、勝気な栄子《えいこ》には諸芸を習わせた。
 新橋に半玉《おしゃく》に出たが、美貌《びぼう》と才能は、じきに目について、九州の分限者《ぶげんしゃ》に根引きされその人に死《しに》別れて下谷講武所《したやこうぶしょ》からまた芸妓《げいしゃ》となって出たのが縁で、江木衷博士夫人となったのだ。関家が東京に住み、令嬢のませ子さんが第一女学校に通学していた十五の時、江木衷氏の夫人はあなたの姉さんだといってると知らせてくれた友達があって、それが逢うきっかけとなった。けれど、もう父の関氏はこの世の人ではなかった。
 今年の二月二十日、わたしはふと、ませ子さんに欣々さんの死ぬ前の様子がききたくなった。二、三日たって、相州片瀬《そうしゅうかたせ》の閑居に、ませ子さんの室《へや》にわたしは坐った。
 ませ子さんも、清方《きよかた》画伯が「築地河岸《つきじがし》の女」として、いつか帝展へ出品した美しい人である。病後とはいえ、ふと打ちむかった時、欣々さんにこうも似ていたかと思うほど、眼と眉《まゆ》がことに美しく、髪が重げだった。この女《ひと》が、大学出の子息が二人もあって、一人は出征もしていられるときくと、嘘《うそ》のような気のするほど、古代紫の半襟《はんえり》と、やや赤みの底にある唐繻子《とうじゅす》の帯と、おなじ紫系統の紺ぽいお召《めし》の羽織がいかにも落ちついた年頃の麗々しさだった。
「姉は惜《おし》い人でしたわ、育てかたと、教育のしようでは河原操《かわはらみさお》さんのようなお仕事をも、したら出来る人だったと思います。
 死ぬのなら、もっと早く死《し》なせたかった。あの通りの華美《はで》な気象ですもの。あの人の若いころって、随分異性をひきつけていました。私がはじめて淡路町へいったころは、毎晩宴会のようでした。あっちにもこっちにも客あしらいがしてあって――江木の権力《ちから》と自分の美貌からだと思っていたから。だから顔が汚なくなるということが一番怖《こわ》い、それと権力も金力も失いたくない。それが、震災で財産を失《なく》したのと衷《あに》に死なれたのと年をとって来たのとが一緒になって、誰も訪《たず》ねて来なくなったのが堪《たま》らなかったらしいのです。よく私に、夫に死なれて後《のち》誰も来なくなったかと聞きました。お姉さまの周囲《まわり》の人と、私の方の人とは違うから、私の方は今まで通りですというと、変に考え込んでしまって――財産がすくなくなったっていつでも他《ほか》のものなら結構立派に暮してゆけるだけはあったのですし、今思えば、京都の方へ旅行するから一緒に来てくれないかといいました。そんなこと言ったことのない人でしたが、よっぽどさびしくなったのだと見えて、練馬《ねりま》の宅《うち》には離れも二ツあるから、一緒に住まないかとも言いました。二男を子にくれないかともいいました。けれどあんな気象の人ですからどこまで本気なのかわからないので誰も本気で聞かなかったので、あとでは強い人があれだけいったのには、いうに言えないさびしさがあったとは思いましたけれど――
 そうそう、よく死ぬのは何が一番苦しくないだろう。縊死《くびくくり》が楽だというけれどというので、いやですわ、洟《はな》を出すのがあるといいますもの、水へはいるのが形骸《かたち》を残さないで一番好《い》いと思うと言いますと、そうかしら、薬を服《の》むのは苦しいそうだね。と溜息《ためいき》をついたりして、変だと思った事もあったのですが、大阪へいっても死ぬ日に、たった一人で住吉《すみよし》へお参詣《まいり》に行くといって、それを止《と》めたり、お供《とも》がついていったりしたら大変機嫌がわるかったのですって、それから帰って死んだのですが、あとで聞くと、住吉は海が近いのですってねえ。」
 わたしは静にきいていた。故|衷《ちゅう》博士がこの姉妹《はらから》ふたりを並べて、ませ子は部屋で見る女、栄子は舞台で見る女といったというが、わたしは、老年の衷氏の前にいる欣々女史は孫、もしくは娘のような態度で無邪気そうに甘えていたことを言って見た。
 ませ子さんは言う。
「姉は利口で
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