のですかねえ。」
 連立《つれだ》った友達は、度の強い近眼鏡を伏せて、独り笑《え》みをしていた。
「冷灰《れいかい》博士――そっちの方のお名には、そぐわないことはないけれど」
 友達が言うとおりだった『冷灰漫筆』の筆は、風流にことよせて、サッと斬りおろす、この家《や》の主人《あるじ》の該博な、鋭い斬れ味を示すものだった。だが、今を時めく、在野《ざいや》の法律大家、官途を辞してから、弁護士会長であり法学院創立者であり、江木刑法と称されるほどの権威者、盛大な江木|衷《ちゅう》氏の住居の門で、美貌《びぼう》と才気と、芸能と、社交とで東京を背負《しょ》っている感のある、栄子夫人を連想しにくい古風さだった。しかしまたそれだけ薄っぺらさもなかった。含みのある空気を吸う気もちであった。
 たそがれ時だったが、門内にはいるとすっかり暗くなった。
 梅が薫《かお》ってくる。もう、玄関だった。
 広い式台は磨かれた板の間で、一段踏んでその上に板戸が押開かれてあり、そこの畳に黒塗りぶちの大きな衝立《ついたて》がたっている。その後は三|間《げん》ばかりの総襖《そうふすま》で、白い、藍紺《あいこん》の、ふとく荒
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