吾が愛誦句
長谷川時雨

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)お席書《せきが》き

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)十二月|一月《ひとつき》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから4字下げ]
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 六歳のをり、寺小屋式の小學校へはいりまして、その年の暮か、または一二年たつてかのお席書《せきが》きに、「南山壽」といふのを覺えました。だが、この欄に書かうと思ひますのは、それよりもまた一年位たつてから書きました、
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百尺竿頭更一歩進
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 といふのでございます。これは、わたくしが、物を覺え、よく記憶したはじめての句だといつてもよいかと思ひます。字句の置きかたは、今まであまり心にしてゐなかつたので違つてゐるかもしれませんが、お席書《せきが》きの字數が長くなつたからばかりでなく、先生からその字句の意味を口授《くじゆ》されたのが、どこか頭にのこつてゐたのだ、と思ひます。
 先生はかういひました。これは、棹がだんだん長くなつてゆくのだ。繼棹《つぎざを》だと思つてもいい。ともかく、その棹のさきへきたらば、またそのさきへ一足《ひとあし》でも進んでゆくことだ。いいか、棹が百尺あつて、その百尺だけあるいて、ああもうこれでいいと思つたのではいけない、そのさきへ、一足でも出てゆくのだよ――と。
 わたくしの生れ育つた場所は、東京日本橋區内の中央《まんなか》でした。その横町に、小さい、甚だ振はない、尋常代用小學校があり、校長と、教師が一人、あとは校長さんのお母さんが習字や裁縫を、求める人にだけ教へてをりました。いはば家族的な、私塾のやうなもので先生も兒童ものんき[#「のんき」に傍点]でしたから、初春《はつはる》に、學校と、自分の宅《うち》へと張り飾る大字を、席書きといつて年末に書くのでした。十二月|一月《ひとつき》は、月の初めから、ほかの學課はなく、その習字の稽古と、お墨摺りで日をおくつて樂しんでをりました。
 子供といふものはをかしなものです。夏の日、蝉をとつてゐても、その棹の頭を見ると、ふと、
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百尺竿頭更一歩進
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 といふ句がうかび出すのです。今日のやうに樂しい郊外散歩などがない時分、父につれられて、本所や向島の釣り堀にゆきますと、わたくしなどの棹のさきへは、赤とんぼ[#「とんぼ」に傍点]がとまつてゐて動きません。それを見てゐるうちに、ふと、思ひうかべるのは、例の
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百尺竿頭更一歩進
[#ここで字下げ終わり]
 でした。わたくしは只今、みんなと日光へきて、ホテルで、あわただしい中に、この原稿の責任をはたさうとして、家にゐると、手許の書籍でも引つぱり出して、もつと、氣のきいたことを述べたかもしれませんが、それには、いくらかつくり[#「つくり」に傍点]ものが交りませう。只今この喧《ざわ》めきの中にあつて、すぐに心にうかんできた、この句こそ、つね日ごろ、愛誦してゐたとはいへないでも、心に忘れ得ず、いく分かは、今日のわたくしの、根《ね》として養つてくれた、思想の一部分であることを信じます。で、却て、こんな、幼時から忘れるでも忘れぬでもなく、はなれないでゐるものこそ、自分のもつてゐるいつはり[#「いつはり」に傍点]のないものと心得、ぶざつながらここに小文を呈します。
[#地から2字上げ](「青年太陽」昭和十年十一月)



底本:「桃」中央公論社
   1939(昭和14)年2月10日発行
初出:「青年太陽」
   1935(昭和10)年11月
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年12月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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終わり
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