、本願寺はある折、疑獄事件があって、光瑞法主はそのために、責《せめ》をひいて隠退され、武子さんは、婦人会の存続について大変心配された。そんなことから、日常のことにも気をつけるようになられたのだろう。『無憂華《むゆうげ》』の中の、「父に別れるまで」の一節に、
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――今思うとこんなこともあった。そのころの道具|掛《がかり》の者が知らなかったのかどうか、割れなくていいというような意味から、金《かね》の水指《みずさし》を稽古《けいこ》用に出してくれたのが、数年のあとで名高い和蘭陀毛織《オランダモウル》の抱桶《だきおけ》であったことや、また幾千金にかえられた堆朱《ついしゅ》のくり盆に、接待|煎餅《せんべい》を盛って給仕《きゅうじ》が運んでおったのもその頃であった。
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 そうした器物まで払いさげられたりして、経済のこともよくわかっていたのであろうし、それよりも、これはあとにもいうが、つまらないことで失いたくない、要用なことにと、いつも心に畳《たた》んでいられたのだと思う。

 武子さんは、あまり広く愛されて、世間のつくった型へはめられてしまって、聖なる女として、苦しんだ。その切《せつ》ないなかに生きぬいて、自分の苦しんだのとは、違う苦しみかたをしている気の毒な層の人たちを、広く愛そうとする、真に、しっかりした心の転換期がきたのではあるまいか。二十年、恋は空《むな》しいと観じ、本願寺婦人会の救済事業を通じて、心身を投じようとしたその時に、あわれ死がむかって来たのではあるまいか――
 おせっかいな世間は、武子さんが完全な人となろう、としているときに――外国にいる人も、そちらにいる方が家庭円満であったかもしれないのに、麗人に空閨《くうけい》を十年守らせるとは何事だと、あちらで職について、帰りたがらぬ良致氏を無理に東京へ転任ということにしたということだが、十年ぶりで、帰る人にも悩みは多かったであろうし、武子さんは、まぶたもはれあがるほど泣きに泣いて、こころをつくろう人世へのお化粧をしなおされたいうことだ。

 死ぬる日の半月ばかり前に、偶然に行きあったのは、かの、かりそめの別れとすかされて、おとなしく頷《うな》ずいて別れた東の御連枝《ごれんし》だった。だが、今度はかりそめの、この世での、それが長い別れになってしまった。おもいがけない病《やま
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