樺《かば》ざくらともうしあげましょう。五《いつ》ツ衣《ぎぬ》で檜扇《おうぎ》をさしかざしたといったらよいでしょうか、王朝式といっても、丸いお顔じゃありません、ほんとに輪郭のよくととのった、瓜実顔《うりざねがお》です。
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と、おなじ夫人がいったことも、わたしは書いている。
それなのに、なぜ、その時のままのを、他《ほか》の人のとおりに、古いままで出さないのかといえば、わたしは女でなければわからない、女の心を、ふと感じたからで、あたしには偽りは言えない。といって、生《いき》ているうちから伝説化されて、いまは白玉楼中《はくぎょくろうちゅう》に、清浄におさまられた死者を、今更批判するなど、そんな非議はしたくない。ただ、人間は悲しいとおもいあたるさびしさを、追悼の意味で、あたしの直覚から言ってみるに過ぎない。笞《しもと》の多くくるのは知っているが、手をさしのべて握手するのも目に見えぬ武子さんであるかもしれない。
昭和二年ごろだった。掠屋《りゃくや》が――商業往来にもない、妙な新手のものが、階級戦士ぶってやって来ていうには、
「九条武子さんとこへいったら、ちゃんと座敷へ通して、五円くれた。」
それなのに、五十銭銀貨ひとつとは、なんだというふうに詰《なじ》った。女というものはそういったらば、まけずに五円だすとでも思っている様子なので、
「あちらには、阿弥陀《あみだ》さまという御光《ごこう》が、後《うしろ》にひかっていらっしゃるから、お金持ちなのだろう。われわれは、原稿紙の舛目《ますめ》へ、一字ずつ書いていくらなのだから、お米ッつぶ拾っているようなもので、駄目《だめ》だ。」
と断わったことがあったが、吉井勇《よしいいさむ》さんが編纂《へんさん》した、武子さんの遺稿和歌集『白孔雀《しろくじゃく》』のあとに、柳原※[#「火+華」、第3水準1−87−62]子《やなぎはらあきこ》さんが書いていられる一文に、
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――ある日のことだった。思想のとても新らしい若い男が、あの方と話合った事があった、その男の話は常日頃《つねひごろ》そうした話に耳なれていた私でさえ、びっくりさせられるようなことを、たあ様の前でべらべらとしゃべった。それにあのたあ様は眉根《まゆね》一つ動かさずにむしろその男につりこまれたかのように聞いておられた。そしてその男の話に充分
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