鏡二題
長谷川時雨

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)姿見鏡《すがたみ》

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(例)へだて[#「へだて」に傍点]
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       暗い鏡

 鏡といふものをちやんと見るやうになつたのは、十八――九の年頃だつたと思ひます。その前だとて見ましたが、鏡にうつる自分を――まだそのころだとて顏だけですが――見たといへませう。十七位の時分は寧ろ姿全體にうつるもの――姿見鏡《すがたみ》でなくつても、硝子戸なんぞでも氣まりが惡かつたので見ないふりをして、その癖誰も見るものがないとしげしげと見詰めたものです。どうも體のどこもが丸くなるのが――尻《いしき》などが極立《きはだ》つて格好が惡くなつて厭でした。
 鏡といへば、子供のころ家に新舊二樣の鏡があつて、どれを見ても心を暗くしたのを覺えてゐます。八十八の祖母は舊式でしたから箪笥のある部屋へ障子屏風をたてめぐらしてその中に鏡臺が飾つてあつて、鏡は丸い鋼《かね》の鏡――夏になるとよく磨師《とぎし》に磨かせてゐましたが、とにかく黒ずんだ、沈んだ顏が鏡の底の底の方に生氣なくうつるのでした。おまけに部屋が藏づくりでしたから、それに窓の青葉などに白い花でもついてゐる時は、妙に氣遠《けどほ》いといふ心持ちがして、美しくいへば、流れに沈んだ晝の月を見るやうだとか、又は深い井戸の底にうつつた顏のやうだとか形容も出來ませうが、その場合は狐つきぢやないかと自分の顏を悲しい凄《こは》いやうに眺めて、嫌な氣持ちがしたものでした。どうもあの銅《かね》の鏡は髮の色でもなんでも生々《いきいき》としたところがうつらないで陰氣です。そのかはりにまた、そのころの西洋鏡――硝子のときたらば粗製品で、どれにうつして見ても顏が違つてゐるのです。顏が半分歪んでゐたり、しやくれて見えたり、滑稽な泣きつ面をしたり、ほんとに嫌になつてしまふのが多かつたので、そんなものは見たくないやうな氣がして――子供だからそれほど分明《はつきり》不快《いや》だとは思はなかつたかもしれないが、まあそんな覺えがあります。
 姿見は中々よく見ました。疊半分以上の、そのころのものではよい品《しな》があつたので、それに息をかけて拭きながら種々《いろ/\》の表情をやりました。だが子供心に、妙なへだて[#「へだて」に傍点]をつけたもので、鏡は顏を見るものとしてで、姿見《すがたみ》の前にくると別な氣分です。といふのは、あたしは踊りが大好きだつたので、お師匠さんなしの自由な踊りの稽古がたのしめたのです。いはばまあ、姿見が師匠なのでした。變なかたちをすると、「拙《まづ》い」と叫ぶ、實に生《き》まじめなもので、その聲は自分の聲とはしないのでした。
 そこで、おとなになつてからのあたしは鏡にこすい[#「こすい」に傍点]對しようをすることを覺えました。一個の鏡を二ツに役にたてる。ある折はあらゆる自分の缺點《あら》さがしをやります、醜さのかぎりを探りだします。それは顏面といふだけではなく、心にまで觸れてゐます。もつとも多く鏡の前で考へます、自分自身の惱みについて――それは深刻なものです。いつもいつもがさうであるとはいひませんが、はじめから自分を睨めるやうにむかふ時もあれば、ふと髮を解く手も忘れて、ボーツとなつてゐる時もあります。前の方の時は惡どく現實的なをりです、後の折はやや空想的です。前の場合には眼は殘酷な秋官《しうくわん》です、なさけ用捨もなく毛筋ほどのおもねりもありません、氣孔《けあな》ひとつにも泣きたいほどの厭さがあつて、とてもたまらない不快《いや》な存在です。ぶちこはしてしまふことも出來ない粗製濫造品、自分だからといふので生かしつづけようとする矛盾さ――まあそんな疳癪です。
 だが、またある折は化《ばけ》たつもりでだまかしておいて貰ひます。それではづかしげもなく人中《ひとなか》へも出ます。化粧といふのは他目《ひとめ》を賺《ごまか》すのではなく自分の心を化しなだめるのです。具合のいいことに化けようとしてゐる心は、都合よく賺《だま》されることに努力します。うぬぼれない自己滿足――自分をだましてゐればよいていどで、なるべく手早く、痛いところに觸れない速力で髮も結ひます、化粧もします。
 あたしは他人《ひと》に髮を結つてもらふのが大厭ひです。ひとつは潔癖からもくるのですが、凝と鏡を見詰めてゐる間が長くて耐へられなくなります。何時も美しいなあと思へて鏡にむかつたらば、鏡は愛らしくもあり、親しみもありませうが――我影を見る親しみはもちながら、なんとなく怖い氣がします。それは年齡《とし》が更《ふ》けてゆくといふ戰《をのの》きばかりではありません。それらのことは面影に、鏡に見出すより早く氣づいて、却て驚いて鏡を見直すくらゐデリカなものです。
[#地から2字上げ](「婦人公論」昭和四年)

        女と鏡

 ある折は、水をのんだコツプにうつる生々《いき/\》した愉快な顏――切子《きりこ》の壺に種々な角度からうつるのも面白い。さし出された給仕盆《おぼん》にうつることもあり、水面《みづ》にうつして妙な顏をして見ることもある。食べものを運ぶホークに、二本の筋のある斷片的な鼻と口とがうつり、齒が光ることがある。それより面白いのは小さな匙に、透明な液體とともに掬《しやく》ひあげた小人《こびと》の自分の顏。どれもあんまり美しいものではない。しかし、ものを書きつづけた夜の顏が、朝の光りに、机や窓硝子にうつつた時のあじきなさは、シヨーウインドに突然くたびれた全身を映照《てら》しだされたをりの物恥《ものはぢ》と匹敵する。
 私もよい鏡を持ちたいと思つた事もあつたが、それは趣味の時もあり、心の守りといふふうに思つたをりもある。今日の考へでは、脂粉のいらぬ年齡《とし》になつても、正《たゞ》しく恥ない日日を送るために入用だと思つてゐる。我心の正邪を、はつきりと、心の窓の眼から覗くことが出來るのは、凡人には鏡が手近だから――[#地から2字上げ](「婦人公論」昭和十一年四月號)



底本:「桃」中央公論社
   1939(昭和14)年2月10日発行
初出:暗い鏡「婦人公論」
   1929(昭和4)年
   女と鏡「婦人公論」
   1936(昭和11)年4月号
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年1月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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終わり
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