年すると妹があがって来た。利口ものの妹は、両親の寵児だったが、強情なので学校ではよくお残りをさせられて、あたしの方がかなしくなって日暮れまで、ガランとした教場でオロオロしていたが、祖母は一層きびしく仕付けてくれるようにと、そんな時は礼を述べさせに人をよこしたりした。勿論、先生に御母堂や御新造がとりなして帰してくれようとしても、家の者は、お連れ申しますと叱られますと、あたしたちを残して行った。
教場の――それは、先生の住居を廻った、かぎの手なりの平屋建ての、だだっ広い一棟で一室だけだったが、畳があげられて板を張りわたし、各自《めいめい》の机や、五、六人並べる、学校で備えつけの板だけの長い机が何処にか取りかたづけられて、二人ずつ並ぶ、腰かけつきの、高脚の机になった時、代用小学校という木札にかわって、高等科はないが温習科というのが二年出来た。唱歌の教師が通って来て、英語もその教師が望むものだけへ教えることになった。すべて、六歳が、ものの手ほどきによい年齢というので、長唄なども習わせかたはきびしい方だった。踊りは、すぐ近くの師匠が、ちいさい時分から眼をつけて、連れに来ては舞台へあげて遊ばせて
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