たほどの苦労をして来て、くされ半纒に縄帯ひとつで、鉱夫と一緒になって働いた人であるし、夫人は夫を信頼して、狐狸の住家だった廃鉱の山へ来たという、東京生まれの女性であっただけに、大変あたしを愛《いと》しんでくれた。
――はじめ聞いていたことと、あんまり違うので――と夫人は言われた。他の者なら、辛抱なさいと言うのだが、あなたにはそうは言わない。すこしも早く、あなたは自分だけになる方が好い。もう山になんぞいないで、十分に自分の道へ出た方が好い。
そう言われて、はじめて道が開けた気がしだした。あたしはこの山住みで、小さな作《もの》を投書して特賞を得たりしたが、これは実力がどの位な辺かという試しにしたことで、これならなぞというたかぶった気持ちではすこしもなかった。
東京へ帰ると、舅が亡くなったりして、離婚のことを言い出せなかった。だが、ぽつぽつと書くものは通るようになって来て、今度は離婚に、婚家の方で意地悪をはじめ、かなり苛酷な目にも逢ったが、その為あたしの健康がおとろえ、もはや生きまいと思われたほどだったので、肺病ではしかたがないと、漸く事がきまった。
その前にあたしは家を出て、実家の世話になっていた。それは一つは、勘当息子にも以前の家をあてがわれ、多少の資本《もとで》をもわけられるようになったから、あたしの心に定めた通りになったから、やましきところがなかったのと、も一つは、あたしの山に居ることを聞いて、作品から慕ってくれていた少年があったから、あたしは、心にもなき家に止まって、その少年の愛を告げる心を掴んでいるのは、両方に対して心苦しく感じたからでもあった。
あたしは、漸くものを書き出しうるようになりつつあった。遅まきながら築地にあった女子語学校の初等科に、十二三の少女たちと一緒になって英語をまなび出した。そのころ父は、一切の公職から隠退して、いくら勧められても出ず、まことに世捨て人のごとく、佃島の閑居に隠遁していたので、あたしは父の傍にいて、父を慰めながら、住吉の渡船《わたし》をわたって通い、日本橋植木|店《だな》の藤間の家元に踊りをならいなどして、劇作を心がけ、坪内先生によって新舞踊劇にこころざしていた。
四
そのころ、母も、まだ巣立たぬ弟妹たちのために、父にかわって、生活の保障をしようとして彼女の性分にあった働きをしていた。以前《もと》
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