》だったので、あたしは肋膜炎の手当がほどこされた。冬のはじめのことだった。
 赤十字病院へ入れるにしても、暖かい日の真昼、釣台でといわれたのを、母は家へ連れて帰りたいと願った。彼女も死ぬと思ったのであろう。あたしは夢中で、暫らく帰らない家も見たいとも思っていた。送るものは、早く癒って、また帰って来なさいと、主侯夫妻まで部屋に来て見送ってくださったが、命冥加にもどうやら命はとりとめた。二月の末に、病みあがりの、あと養生もしないで邸へ帰った。その時は息切れが甚《しど》いくらいでわからなかったが、喘息がその次の冬になってあたしを苦しめ、心臓も悪かった。でも、どうにか押し隠して、自分の自由のある夜の世界を楽しんでいたが、息切れと、膝関節炎になって、日本館の長い廊下や、西洋館の階段を終日歩き廻る役は、だんだんつらくなって、人の見ていない時は這ったりしだした。
 足かけ三年目の初夏、奉公をさげられた。あたしは家にいて、また裁縫や解きものの時間を利用しだした。
 おかしな事に、肋膜で病らったあの大病のあとの、短い日数《ひかず》のうちに、あたしは竹柏園《ちくはくえん》へ入門していることだ。ほんとは、もっと早く奉公に出されぬ前、祖母が死ぬと直きに、弟をねんねでおんぶした仲働きが、人形町までといって出た、あたしの買いものの供に付けて出されたが、この女中は二十歳《はたち》を越していて、何かよくわかったから、却って道案内をしてくれて、神田小川町の竹柏園の門に立ったことがあったのだ。まだお若かった佐佐木信綱先生と、新婚早々の雪子夫人は、その時、花簪を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]した、ちりめんの前かけをしめていた、あたしの姿を今でも時々おっしゃる。
 さて、入門したといっても、こっちがしたつもりだけで、実のところ、束脩《そくしゅう》もおさめたやら、どうやら、福島の人で、あたしたち姉妹を可愛がってくれた、あまり裕福でない、出入りの夫婦にたのんで、榛原《はいばら》で買った短冊に、しのぶ摺りを摺ってもらいにやって、それが出来て来たのを、十枚ばかりおみやげに持っていったのが、ありったけの心持ちだったのだ。ずっと帰って来てからは、大胆になって、かまわずに稽古日には朝から出かけた。もとより本はないから、先生のうちの玄関の、欄間までギッシリ積んである本箱の上から出
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