盥《かなだらい》へ入れて捧げてゆく。今日日《きょうび》は、花柳界もどきの、そんなふうな磨き道具を素人でも持つが、町家《ちょうか》の女房ではまずない図だった。
 おおかめさんは、何時も、大勢の娘のうち二、三人を連れていた。娘たちは醜《みに》くかったが、父親に似て色の白いのや、母親似で太く逞《たく》ましいので、とにかく四隣を圧し、押えに番頭さんの女房である痩《や》せた、ヒョロヒョロの青黄ろい、皺《しわ》の多い、髪の毛が一本ならべの女が附いてゆくのだ。
 その番頭さんの女房も、お附女中のおとのさんも、おおかめさんの近親であるから、おおかめさんの豪勢ぶりも粗豪で異色があり、せまい小川湯は、たちまちこの一群に占領され特設のお風呂場のごとくなってしまう。
 元来、大所《おおどころ》は、みんな自宅風呂があるのだが、土一升、金一升の土地に、急にのさばり[#「のさばり」に傍点]出したものには、金づくだけではその設備をする場所がないのだ。で、豪気な、おおかめさん一家は、けちけち町湯にゆくのが業腹《ごうはら》で、白昼大門通りを異風行列で練りだすのだった。ときによると、あんぽんたんまで、その人数に加えようと、借《かり》にくるのだった。
 あんぽんたんが可愛いから、売に来てやるんだと、たんかを切る、深川浜の蛤《はまぐり》町からくる、倶梨伽羅紋々《くりからもんもん》で、チョン髷《まげ》にゆっているというと威勢がいいが、七十五歳のおじいさん江戸ッ子の小魚売は、やせても昔の型を追って、寒中でも素体に半纏《はんてん》一枚、空脛《からずね》、すこし暑いと肌ぬぎで銀ぐさりをかけて、紺の腹掛と、真白い晒布《さらし》の腹巻、トンボほどな小さな丁字髷《ちょんまげ》が、滑りそうな頭へ、捻《ね》じ鉢巻で、負けない気でも年は年だけに、小盤台を二つ位しか重ねていないが、ちいさな鰈《かれい》や、鯒《こち》がピチピチ跳ねていたり、生きた蟹《かに》や芝|海老《えび》や、手長《てなが》や、海の匂いをそのままの紫|海苔《のり》と、水のように透《す》いて見える抄《すく》いたての白魚の間から、ちいさなちいさな小|蟹《かに》だのふぐだのを選《より》出してくれる、皺《しわ》の自来也《じらいや》の、年代のついたいさみの与三|爺《じい》が、
「げッ、鉄屑《かなくそ》ぶとりめ。」
と唾《つば》きを吐きかけたが、おおかめさんは、それほど豊《ゆた》やかに肥《ふと》っている。顔は艶《つや》やかだが赤黒く、体の肉は襞《ひだ》ごとつまみあげて、そこここを切りとれば、美事な肉片が出来ると思われるほどだった。だから、その面積もたいへんなもので、体を拭《ふ》くのに二人かかった。
 ともかく、二人の先触《さきぶ》れ小僧が、小川湯へつくと、他《ほか》に浴客《おきゃく》があろうがなかろうが、衣類《きもの》の脱《ぬ》ぎ場をパッパッと掃きはじめ、蓙《ござ》を敷く、よきところへ着物を脱ぐ入れものをおく。それから尻《しり》っぱしょりになって、流し場へ、お湯を酌《く》んだ桶《おけ》を積みあげ、ほどよく配置して、中央へその一党の場席を大きく陣取って待ちかまえるのだ。馴《な》らされた小者は、他への気|兼《がね》や、きまりのわるさなど、忘れてしまっているほど、おおかめさんが怖いのだ。口の中へ一ぱいに大福餅《だいふくもち》を押込まれたり、あの肥った体で踏んまたがれて、青坊主に剃《そ》りたてられるのが愁《こわ》いのだった。
 そうだっけ、小僧の一人、亀吉は剥身《むきみ》売りだったのだ。父親のない、深川ッ子の剥身売り[#「剥身売り」は底本では「剥売身り」]が、おおかめさんの台所の障子口から顔を突ッこんで、買っとくれようといったのが縁で、この連中が面白がって小僧にしたのだから、気に入らないと、剥身を売っていたときの、着物きせて、大門通りを歩かせるぞと言われるのが、よっぽど恥かしかったものと見える。
 も一人の平三は、車力《しゃりき》の親方の子で『菅原伝授手習鑑《すがわらでんじゅてならいかがみ》』の寺子屋、武部源造《たけべげんぞう》の弟子ならば、こいつうろんと引っとらえと、玄蕃《げんばん》が眼を剥《む》きそうな、ひよわげで、泥亀《すっぽん》に似た顔をしている。亀吉の精悍《せいかん》さが眼立ちもしたが、平三の背景は亀吉とちがって、おおかめさんの連合《つれあい》が若い時分、吉原の年明《ねんあ》けの女郎が尋ねてきたのを、車力宿で隠囲《かくま》ってやっていたというのが、不心得で、親たちがおおかめさんに忠義でないといわれるぐらいだった。
 おおかめさんの風貌《ふうぼう》を、もすこし委《くわ》しくいえば、体の大きさと眼との釣合は鯨《くじら》を思えばよかった。鼻は、眼との均衡がよいほどだが、竪《たて》に見えるほどの穴が実に大きい。私は古面《こめん》展覧会で鎌倉期の、だれだかの作で、笑った女の面が、眼も鼻もなく、顔の真中につぼまって、お出額《でこ》と、頬っぺたと、大きな※[#「月+齶のつくり」、第3水準1−90−51]《あご》に埋まってしまって、鼻の穴だけが竪に上をむいた、いかにも親しみやすい平民の女の顔を見たとき、ふっと、おおかめさん一族の女に共通だったものを見て、お面に笑いかけてしまった。けれど、古面の方は眼が糸目なので――開いても柔らかいであろうが――おおかめさんは、小さな眼が、奥のほうで濁った鋭さをもっていた。
 おおかめさんとは、大旦那に対する、大内儀《おおおかみ》さんの意味で尊称なのであろうが、自分でいうとおおかみさんになり、出入りの相撲《おすもう》さん×山関がいうとおおかめさんとなる。狼《おおかみ》がいいというものと、大お亀《かめ》の方が縁起がいいというものと、どっちもごっちゃだ。
 おおかめさんの御機嫌にさからうと、
「どいつもこいつも、みんな出ていけ。」
と家中のものが、一集《ひとあつ》めに頭から怒鳴られる。お品よく、お品よくと、お附女中から、大番頭さんの女房まで揃えても、ともすると夏は諸《もろ》はだぬぎになったりして、当り屋仲間の細君が、以前から大家《たいけ》だったように勿体《もったい》ぶっているのと、歩調が合わなくなると、
「あのお虎婆め、常磐津《ときわず》もろくに弾けない、もぐり師匠だったのを、わすれやがったか。」
と自分のおさとまでぶちわって、向う角の、蔵造りで、店は格子を閉めてある、由緒ありげに磨きあげて、構えこんでいる黒光りの角蔵《かど》を睨《にら》んで、その奥座敷におさまる比丘尼《びくに》婆の、絽《ろ》の十徳を着た女隠居に当りちらすのだった。
 おおかめさんは八丁堀の古着屋の娘、近所の古鉄商の若い衆で、田舎出だが色白で、眼鼻立のはっきりしたのに惚《ほ》れこんだのだ。若い衆の方は、金がなくても、夜寝床から裸でぬけだして、駕籠《かご》で飛ばして行くと、吉原で花魁《おいらん》がたてひいたんだと、紳士になってからも、湯上りにはすっかり形式をかなぐりすてて、裸になって、手拭を肩へかけ、立膝《たてひざ》でお酒をのんで、土用のうちでも、蔵前のどじょう汁だとか、薬研堀《やげんぼり》の鯨汁好みが、汗をふきふき、すっかり紳士面になりきってしまった仲間をこきおろすのだった。平日《ふだん》は重い口が、顔が赤銅色に染まると、
「××屋は、すっかり殿さまぶっちまやがって、芸妓《げいしゃ》が来ても、おお、来たか、近う近うなんていやがる。夜っぴてよ、蝋燭《ろうそく》でよ、銭勘定したり、横浜までゆくのに、旅費がなくって、宿場《しゅくば》の牛太郎《ぎゅうたろう》までしやがったことわすれてやがる。」
 それは横浜に居ついて、旧大名の真似をした暮しをしている、輸入商になった、当り屋仲間のことだった。そのまがい殿様の奥さまは、大柄な、毛の多い、顔色の悪い女で、つとめをしていた女の上りだった。
 ××屋は広い店と、広い住居をもっていて、主人は白い長い※[#「月+齶のつくり」、第3水準1−90−51]鬚《あごひげ》をひっぱり、黒ちりめんの羽織で、大きな茵《しとね》に坐り、銀の長ぎせるで煙草《タバコ》をのみ、曲※[#「碌」のつくり、第3水準1−84−27]《きょくろく》をおき、床わきには蒔絵《まきえ》の琵琶《びわ》を飾り、金屏《きんびょう》の前の大|瓶《がめ》に桜の枝を投げ入れ、馥郁《ふくいく》と香を※[#「火+主」、第3水準1−87−40]《た》くというおさまりかたなので、
「いやな奴《やつ》だ。」
と、くさしながら、どじょう汁の大旦那も、古道具やから、高価な偽物《にせもの》をつかませられる好《い》いお顧客《とくい》だった。
 おおかめさんは、家《うち》では金が出来てしかたがないのだといった。いつでも、せまいほど家のなかがウザウザして、騒々《そうぞう》しい家《うち》だった。樽《たる》づめのお酒を誰かしら飲口《のみくち》を廻していた。放縦《ほうしょう》だった。娘たちは、夜になるとねんねこを着た襟を、背中の見えるまでグッと抜衣紋《ぬきえもん》にして、真白に塗った頸《くび》にマガレットに結って、薔薇《ばら》の簪《かんざし》を挿したり、結綿《ゆいわた》島田に結って、赤と水浅黄の鹿の子をねじりがけにしたりして、お酒をのんでいた。おおかめさんが寝間着に寛袍《どてら》をはおって、大座ぶとんに坐り、それをとり巻いて振り将棋みたいなことをして、みんなが賭《か》けた小銭を、ザクザクと、おおかめさんは座ぶとんや、膝《ひざ》の間に押入れて、忽《たちま》ちのうちに勝ってしまう遊びをした。パースでも、みんながかけた。おはなもした。
 束髪の娘は英語の教師に走り、結綿は駈落ちするところを、小僧の亀《かめ》どんが見つけて騒ぎ出したので、かえっておおかめさんに叱られたのだといったが――末の子の、おっちゃちゃんが亡くなると、思い出してしようがないから、おないどしのあんぽんたんに遊びに来てくれと、贈りものをよこしては迎いにきた。
「あれで、鬼子母神《きしぼじん》さまなんだ。」
 使いに来た、先方とも此方とも共通の、近所の出入りの者がいうほど、足のわるい末っ子を可哀がっていたのかどうかわからないが、あんぽんたんが借りられなければならないわけは、別にあったのだ。



底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店
   1983(昭和58)年8月16日第1刷発行
   2000(平成12)年8月17日第6刷発行
底本の親本:「桃」中央公論社
   1939(昭和14)年刊行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2003年7月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング