通りは名のごとく万治の昔、新吉原へ廓《くるわ》が移《ひ》けない前の、遊女町への道筋の名であるゆえか、大伝馬町、油町、田所町、長谷川町、富沢町と横筋にも大問屋を持つ五、六町間の一角だけがことに堅気な竪筋なので、住吉《すみよし》町、和泉《いずみ》町、浪花《なにわ》町となると、葭《よし》町の方に属し、人形町系統に包含され、柔《やわ》らいだ調子になって、向う側の角から変ってくるのが目にたっていた。そして、劃然《かくぜん》とではないが、もうそのあたりは大門通りとはよばなかった。大門通りの突当りといった。突当りの感じのするように和泉町が押出していてそれから道幅がせまくなり、ゴミゴミした裏に、松島町の長屋があったのだ。
 大門通りでは、屋台店も、表筋の道路へは遠慮して出なかった。横町の、人形町側へ出はずれかける場所に、信用されている品のよい店が秋から春まで一、二軒出た。
 屋台店の立食は、湯がえりの職人か、お店の人の内密食《ないしょぐい》、そのほかは、夜長の、夜業《よなべ》をしまったあとで時折買うものだと、大問屋町の家庭では下女たちまで、そんなふうに堅気にしこまれていたので、大所《おおどころ》の旦那さんの天ぷらの立食は、なんとまあ呆《あき》れたものだというわけだったのだ。示しがつかないでございましょうとお爨《さん》どんでさえいうのだ。
 立食旦那の家は、店蔵、中蔵、奥蔵、荷蔵と、鍵《かぎ》の手につらなって、何処《どこ》もかも暗い大きな家だった。奥深い店の、奥の方の棚に、真鍮《しんちゅう》の火鉢の見本が並《なら》べてあるのが、陽《ひ》の光がどこからさすのか、朝の間のある時、通りがかりに覗《のぞ》きこむと、黄色くキラキラ光っていて、黄昏《たそがれ》に御仏壇を覗《のぞ》いたような店の家だった。
 ああいう家は、金がうなってるんだと、よく、町の細かい人たちは噂《うわさ》していた。庭は、横の新道までぬけた広いのだのに、住居にしている中蔵の前に、コチョコチョと石を積上げた築山《つきやま》をつくり、風入れや、日光をわざと遮《さえぎ》ってしまって、漆喰《しっくい》の池に金魚を入れ、夏は、硝子《ガラス》の管で吹きあげる噴水のおもちゃを釣るした。
 湯がえりの下駄の歯がカラカラ鳴って、星が光る霜夜に、
「ま、め――煎《い》りたてま、め――」
と火をぱたぱた煽《あお》ぐ音をさせたり、
「いなりさん――
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