い。

 そのころは、まだ写真術が幼稚だったし、新聞の号外もまだ早く出なかったから、私たちに目から教えたものは、やはり木版|摺《ずり》三枚つづきの錦絵《にしきえ》だった。ここに入れるのに丁度よい議事堂の火事の絵をもっていたのだが、どこへか失ってしまった。私は昨日も今日も、随分たんねんに探《たず》ねたが見えないのですこしがっかりしている。

 人は何かあると、家の中になんぞいられるものではないと見える。童女のあんぽんたんの知る憲法発布もそうだったが、日清戦争のはじまった時もそうだった。ただ、ワアーと男たちが外へ飛出した。ただすたすたと駈けてゆく。下駄で、前垂《まえだ》れがけの、縞物《しまもの》の着つけの人ばかりの町だ。かわった風体《ふうてい》のものが交ったって目にもはいりはしない。なんだか妙に、賑《にぎ》やかにさびしく、興奮した顔というのか、近火へでも駈けつけるように、誰も話しあいもしないで、すたすたと、各自《めいめい》バラバラに駈けていった。女たちは落附かない、びっくりしたような、ポカンとした顔を門口《かどぐち》に並べていた。
 戦争だ!
と誰かが叫んだ。みんなが駈けてゆくさきは交番だった。何か張紙がしてあって、巡査さんが熱そうな顔をしていた。交番の前は、遠くから黒山の人だかりでもみあっていた。そろそろ帰ってゆくものもあって、その人たちは、青くひきしまった顔附きで家へと急いだ。今思えば、宣戦布告と召集の張紙であったのであろう。もう涙ぐんでいる娘さんや、前垂れを眼にあてている女《ひと》もあった。何しろ下駄の音は絶間なく走った。
 ここで一言いわせてもらえば、ここまで書いてきた日本橋で、私《あたし》という子供が、すこしでも小利口に見えるようならば、書きかたが大変わるく、なっていないのだ。一月ほど前に北京《ペーピン》から帰ったあんぽんたんの妹おまっちゃん(前出)が、成城女学部にいる姪《めい》をつれてきて、何かクスクスにこついていたが、曰《いわ》く、
「あなたって子は、ずいぶん呑気《のんき》な、阿呆《あほ》ったらしい子でしたがねえ、ええ、かなり大きくなったって、何だかぼんやりしてたわ。」
 正《まさ》にその通り、総領の甚六と、利発な妹とであったのだ。
 その甚六が俳句をつくる真似《まね》をする――私は和歌のつもりだったのだが――当時父が俳書をひねっていたので、母は一概にそうきめてしまって、父の方へ抗議がいった。
「あなたが、そんなくだらないものを読んで、考え込んでお出《いで》なさるから、子供のくせに真似をして黙りこんでいて、溜息《ためいき》なんかつくから、陰気くさくって困るじゃござんせんか。」
 父はおかしな人だった。恐縮して俳句をやめ、私を叱《しか》らないで、あんの山からこんの山へ、飛んでくるのはなんじゃろか、と頭に二本、指だか扇子だかを、兎の耳のようにおったてる小舞《こまい》を、能の狂言師をまねいて踊りだしたが、そんな小謡《こうたい》は父が汗を出して習うより早く、障子《しょうじ》にうつる影を見て、子供たちの方がおぼえてしまった。
 あんの山よりこんの山へとか、頭《かしら》に二つ、フッフッとか、誰もかれもが唄《うた》い、踊りだすので、父が照れて止《や》めて、こんどは茶の湯、家中が、そろりそろりと畳をすってあるく――だが私の溜息《ためいき》をついたのは、別段、父の真似をして黙想したのではなく、胸に病《やまい》をもちはじめたのを誰もが思いもつかなかったのだ。堅い棒で肩を叩《たた》いたり、肋骨《ろっこつ》をもんだりするのを、ただ読物のせいにばかりした。机によりかかっているからだと厳しくとめられた。
 ところで、悲惨なことに――あんぽんたんにとっても悲惨なことに、源泉学校は(前出)やっと尋常代用小学校となったのに、校長秋山先生が疫病《えきびょう》で急に死んで学校がなくなった。温習科二年にたった一人の生徒あたしは、それをしおに学問はやめ、裁縫《おしごと》の稽古《けいこ》にやられる運命になった。

 ここに、日本橋住人の一家族として紹介しなければならない人たちはまだ沢山ある。思えば私はおかしな人たちの中にばかり育ってきたものだった。今日の尺度《ものさし》では、ちょいと量《はか》りきれない間伸《まの》びのしたものだ。甚だのんきなもののようだが、首都日本橋に面影をとどめた、三百年封建制度の膝下《しっか》にあった市民の末期と、新しく萌上《もえあが》る力との、間に生きたある層の、ありのままの風俗である。
 あたしはまた、ふたたび日本橋を書きつづける日を持とうと思っている。



底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店
   1983(昭和58)年8月16日第1刷発行
   2000(平成12)年8月17日第6刷発行
底本の親本:「旧聞日本橋」岡倉書房

前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング