れる代議士というものが、妙なものとして印象された。

 深川の木場《きば》が、震災の幾年か前まで、土地っ子で帽子をかぶったものが歩いていなかったように、日本橋区大門通辺では、明治三十年ごろでも、帽子を被《かぶ》って歩いているものはすけなかった。それは大よそゆきの旦那《だんな》に限られた。旦那たちも紐《ひも》までこった前掛《まえだれ》をかけている。ましてお店《みせ》の人は羽織を着たのもすけない。男の子は日清戦争後、めくらじま[#「めくらじま」に傍点]の上《うわ》っぱりを着るようになって筒袖《つつそで》になった。やっぱり盲目縞《めくらじま》の(黒無地の木綿)前垂れをしめている。小僧さんが筒袖になったのはそれよりずっとあとだ。それもやや文化的商業、鉄物屋とか機械商とか、横浜と取引関係のある店からあらためはじめた。
 だが、そんな小さな改良のかげにも、あらそわれない物の推移があった。父は家業がら、近所の商家からの依頼をうけるので、店の推移について心を動かされもしたのであろう、よくこんなことを言った。
「黒い、大きな判《はん》こが、朱肉になってくると、商業《あきない》の具合がちがってくるな。」
 紫色のスタンプなぞは、まだ見られないのだった。問屋筋のかたぎのうちでは、大きな、極印《ごくいん》のような判をベタベタと押した。実印も黒色《くろ》だった。それが朱肉の、奇麗な印判《いんばん》になると、自然古い商業の、法則と反したものが流れてきて、古い取引が倒れたり、新らしいやりかたが破産したりしたものと見える。
 あたしの家の近所で、一番早くなくなったのが、両換屋《りょうがえや》と、煙管《キセル》のらお[#「らお」に傍点]問屋だ。
 大問屋町にすむと、土地の名によって、地方取引先の信用につなげるので、この大店《おおたな》の中にあって、びっくりするような小店舗がある。こういう人はきっと他所《よそ》から、必ず成功しようと、掻分《かきわ》けて潜《もぐ》り込んでくるのだから意気込みが違う。笑われようと呆《あき》れられようと、そんな事にはむとんちゃくで、活気が資本《もとで》だ。
 隣り蔵と隣り蔵との間に、便宜上露路のある場処がある。片っぽの土蔵のほんの差《さし》かけが、露路口にあって、縄を収《しま》う納屋にでもなっていると、その、たった畳《たたみ》一畳もない場所を借りうけようと猛烈な運動をする。昔から土一升、金一升の土地でも、額《ね》にはならない高いことをいって、断わっても借りてしまう。とにかく畳一畳へ造作をして、昼間は往来へはみださした台の上へ、うず高く店の商物《しろもの》を積みあげる。この割込みが通れば一ぱしのものだ。いつの間にか、露路上へまで乗り出し、差かけ二階が出来上り、どこへあれだけの人数が寝るのだろうと思うほどの店員が住んで働らき出す――実際古くさい大店《おおみせ》の、よどんだ中に、キビキビとそんなのが仕出すと、小気味がよいが、近隣の空気はどことなく変って、けいはくになってくる――
 そこで、あんぽんたんの家庭《うち》にも、少々変革があった。それは弟が生れたからだ。
 雛《ひな》の節句の日に、今夜、同胞《きょうだい》が一人ふえるから、蔵座敷に飾ってあるお雛さまを収《しま》えと言いつけられた。その宵、私たち小さくかたまって、おとなしくしていると、八十二になっていた祖母が引裾《ひきすそ》を、サヤサヤと音たてて、チンボだよチンボだよと言いながら父の方へいった。
 国会開設前であった。父は一体遅い子持ちなのに、思いがけなく男の子が出来たので、興奮したのか、国会太郎としようかのと、変な名を言い出したりしたが、凡庸であった時に困るであろうから、きわだった名はつけぬものだと、祖母にいさめられていた。
 生れた弟は弱い子で、真綿とフランネルと絹にくるまっていた。
 男の子を生む――家督取《あととり》を生んだということが、旧式な家庭における主婦の位置を、どんなに高めたか――
 親類というものからも、出入《でい》りというものからも、お手柄でございましたという讃詞《さんじ》と、張込んだ祝いものがくる。そこで、母の勢力が増して強くなった。
 議事堂が焼けた。議事堂炎上ということは、人の足を空にした。
 私《あたし》の家《うち》でも、いくつ弓張りや手丸提燈《てまるちょうちん》に灯《ひ》を入れて出してやったかわからない。議事堂です、議事堂ですと、各自《みんな》が口々に言った。丸の内の火事は、旧幕時代でも、町奉行、火消掛、お目附《めつけ》その他役附老中の出馬、諸大名の固め、町火消、諸家お抱《かかえ》火消と繰出して、持場持場についたものだが、当今、城は宮城であり、何しろ議事堂の失火だからと、父ははなしてくれた。単に建築物が焼け滅びるという言葉意外に、大きな衝動をうけたに違いな
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