お坊さんは、壇の上の独鈷《とっこ》をとって押頂《おしいただ》き、長い線香を一本たて、捻香《ねんこう》をねんじ、五種の抹香を長い柄《え》のついた、真ちゅうの香炉《こうろ》にくやらす。そして徐《おもむ》ろに、衣の袖を掻《か》きあわせ、瞑目《めいもく》合掌の後、しずかに水晶の数珠をすりあげ、呟《つぶや》くようにひくく、
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ぢん未来《みらい》さい――
帰依仏
帰依法経――
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とかなんとか、涼しい、低くよく通る声で、だんだんに皆をひっぱってゆく。
祖母は、有難い御僧《おんそう》に、褌《したおび》の布施をする時は、高僧から下足のおじいさんにまで、おなじように二締《ふたしめ》ずつやった。祖母は別段、和讃歌もお経も覚えようとしなかった。松さんがその事を帰りに訊《き》いたら、
「空念仏《そらねんぶつ》だ。」
といった。では、なぜ毎晩参詣なさいますといったら、こう答えた。
「老人《としより》は家《うち》もすこしはあけてやるものだよ。」
門前の汁粉屋は、人の帰り足をきくと、毎晩かかさず立寄る祖母と、その仲間のために、おしるこを熱くし、おぞう煮もつくっておいた。もんじやきやのお婆さん、ほおずきやのおかみさん下足のおじいさんといった仲間が、そのほかにも三、四人はきっとくる。そして車夫の松さんと、迎えにくる女中と、あんぽんたんと、それだけが、あまり上等でないおしるこを振舞ってもらう。
あたしは「長吉」という、まっ黒な古人形を持っている。長吉はねずみちりめん無垢《むく》の上衣《うわぎ》、緋《ひ》ぢりめん無垢の下着、白の浜|縮緬《ちりめん》のゆまき、緋《ひ》鹿の子のじゅばんを着ている。それらは古びきっているが、祖母が江戸へ来てから新らしく縫って着せたものだ、祖母はその長吉人形を抱いて十九の年に下向したのだ。
なんで江戸まで出てきたのかというと、疱瘡《ほうそう》を病《わず》らっているとき、あんまり許嫁《いいなずけ》の息子とその母親が、顔を気にして見舞いに来るので、ある日、赤木綿の着物に、赤木綿の手拭で鉢まきをし熱にうかされたふりをして、紅提灯をさげて踊り出し気の弱い許嫁|母子《おやこ》を脅《おど》かして、自分の方から愛想ずかしをさき廻りにしてしまった。こんなところは面白くないと、江戸の兄をたよって出て来たのだった。小りんという名も、よい容貌
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