は、今までになかった色彩《いろどり》をそえたのだった。それが人気にあった。しかも中洲《なかず》は開けたばかりですぐ近く、前の川の下である。橋をわたれば葭町《よしちょう》の花柳場《さかりば》があり、いんしんな人形町通りがあり、金のうなる問屋町にとりまかれて、うしろには柳橋がひかえている。ずっと昔、浅草猿若町へ、三座がひけぬ前の、葺屋町《ふきやちょう》、堺町《さかいちょう》の賑いをとりかえしたかの観を呈した。もともと千歳座があったが、中芝居《ちゅうしばい》であり、人気のあった中島座は小芝居ですでに焼けて亡《ほろ》び、中洲に真砂座《まさござ》があっても、歌舞伎の稽古《けいこ》芝居か、新派であったので、明治座はたいした人気となった。
それに、そのころ尾上一家の細かい芸よりも、豪宕《ごうとう》な左団次(今の左団次のお父さん)が時流に合って人気を得ていた時で、その左団次が座頭《ざがしら》であり、団十郎が出動し、福助(今の歌右衛門)が女形《おやま》だというので、左団次|贔屓《ひいき》の力瘤《ちからこぶ》は大変だった。
二絃琴のおしょさん芦須賀さんは、その左団次が、若い時からの岡惚《おかぼ》れだといってさわぎ出した。
だから、曙山さんは左団次の弟子になった。おしょさんは、当地に馴染《なじみ》のない人だからと、毎日毎日楽屋へいろんなものをもたしてやる。ほかのものはいいがお汁粉《しるこ》をどっさりこしらえてもってゆく時は、おもよどんは運ぶのに大変だ。とにかく、お稽古はそっちのけで、明治座のはなしに無中になっている。
アンポンタンは十二、三の時から、あの貧乏な勝梅さん(前出、長唄の師匠)の蠣殻町《かきがらちょう》の家から出ると豊沢団《とよざわだん》なんとかいう竈河岸《へっついがし》の義太夫の師匠の表格子にたって、ポカンと中の稽古をきいて過し、びっくりして歩きだして橋を渡ると、千歳座の前で看板にひっかかり、それから附木店《つけぎだな》まで歩いて、本箱の虫になって、家から迎えがくるか、おもよどんかお金ちゃんに送りながらわびてもらって、暗くなってから家へかえる習慣になっていたから、明治座が出来たから急に芝居の前にたつわけではなかったが、みんなとは違った意味で、自分の欲をたんのうさせてもらった。
もともと家《うち》では、長唄が一日、二絃琴が一日と隔日にというのを、盲目《おめく》の勝梅さ
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