彼女はいった。彼女は彼の家の火鉢の前に座るべき正妻の権利を第一にもちうるものは自分だと信じてるのだ。だから障子をガラリとあけた。
「どなた――」
ぼやけた声がする。
はて! 女もさすがに躊躇《ちゅうちょ》した。
「あたしです。」
「あたしって、どなた?」
彼女は、自分の位置であるべきもののような問方《といかた》をするのが小癪《こしゃく》にさわった。けれど、来たわけをいわないわけにはいかない。
「××さんはいませんか?」
「ええ、まだ帰らないんですよ、あきれっちゃうじゃありませんか、何処《どこ》をウロウロしているのだか。」
女はギクリとして障子の中を覗《のぞ》いた、そこには、姐《あね》さんかぶりの後むきが、小意気な半纏《はんてん》を着た朝の姿で、たすきをかけて、長火鉢《ながしばち》の艶拭《つやぶき》をしていた。
「まあ! あなた、おかみさん――」
女は、しどろな言葉で挨拶《あいさつ》して、来た時の勢いとは、くらべものにならないしょげかたで、どぶ板に、吾妻下駄《あずまげた》の音を残して帰っていった。
なんだろうまあ、あの女は折角来たのに、用向きもいわないで――と思っていると、
「おおこわ、こわ!」
といって、同居の片っぽが帰って来た。そして、姐さんかむりの仲間を見ると、フッと吹出して、
「おかみさんがいるのに、なぜ、いわなかったってたぜ。」
といって、カラカラ笑った――
いまこの人は老女役《ふけやく》になって、生れ土地の関西へ帰っている。
久松町の千歳座《ちとせざ》が焼けて、明治座が建つと、あの辺は一体に華《はな》やかになり、景気だった。芝居小屋がやけて芝居小屋がたつのに、そんなかわりがあるかといいたいほど代った。明治座前に竈河岸《へっついがし》へかけて橋がかかった。川を離れてその橋じりへまで、芝居茶屋が飛んで建ったほどだ。明治座は橋にむかった角で、芝居茶屋は右手に並んでやまと、はりまやと五、六軒、通りをへだてた横に日野屋さぬきや六、七軒、楽屋口うらに中村屋が一軒、みんな大間口の素晴《すばら》しい店だった。茶屋は揃って、二階に役者紋ぢらしの幕を張り、提灯《ちょうちん》をさげ、店前《みせさき》には、贔屓《ひいき》から役者へ贈物の台をならべた。劇場の表飾りもまけずに趣好をこらし、庵《いおり》看板をならべ、アーク燈を橋のたもとに点《つ》けたので、日本橋区内に
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