。おじさんは、おしょさんのために、子供たちの琴の譜をさし示す銀の細い、消息子《しょうそくし》のような棒をつくらせてくれたりした。
 おしょさんが髱《たぼ》をかきつけている巧《うま》さ――合せ鏡で、毛筋棒《けすじ》のさきで丸髷の根元を撫《なで》ている時|鬘《かつら》のように格好のいい頭を、あんぽんたんは凝《じっ》と見つめていた。七日目《なぬかめ》でも結いたてよりきれいで格好もよかった。私は夏の日、日盛りを稽古にゆくが、おしょさんの邪魔はしなかった。おしょさんが寝ていても、お客様があっても、髪結いさんが来ていても、お湯にいってきてからでもお化粧がすんで、さあはじめましょうよといわれるまで、幾時間でも、待てば待つほどおとなしくよろこんでいた。なぜなら、おしょさんのうちには、くさ双紙《ぞうし》の合巻《ごうかん》ものが、本箱に幾つあったかしれない。それがみんな、ちょいと何処《どこ》にもあるようなのではなかった。品も新らしいように奇麗で、みんな初版|摺《ず》りだったから、表紙絵の色|刷《ず》りも美事だった。
「ヤッちゃんは大事に丁寧に見るから。」
 おしょさんは誰も他に人がいないと、秘蔵な『田舎源氏』まで出して見せてくれた。
「ヤッちゃんは絵を見るばかりじゃない、ちゃんと読むんだからな。」
 おじさんも同感であるといった。だから向うでも長い日のうちには、私は半日いようと邪魔にならない存在になって、ちょいとした留守番もする。そこらにのそのそ[#「のそのそ」に傍点]していても、猫とおんなじ位の身うちあしらいだった。ある時おじさんがうんうん[#「うんうん」に傍点]いって押入れの葛籠《つづら》を引っぱりだして暑いのに何をはじめたんですとおしょさんが小言をいった。
 古い錦絵《にしきえ》――芝居の絵を沢山に張った折本《おりほん》を、幾冊かだしてくれた。私の家にもそれらはいくらかあった。だが、ここのように系統だって集めたものではない。夫婦は熱心に、これはなんという役者で誰の弟子、当り芸はなにで、こんな見得《みえ》をした時がよかったとか、この時の着附けはこうだとか、誰の芸風はこうで彼はこうと、自分たちの興味も手つだってよく話してくれた。
 小伝馬町の古帳面屋の店蔵《みせぐち》の住居の二階で時折見かける、盲目《めくら》で坊主頭《ぼうさん》のおばあさんが、おしょさんのうちにも時々来てとまっていた。
 紺ぽい麻の単物《ひとえ》を着て、唐繻子《とうじゅす》の細い帯をキチンとしめている盲目のお婆さんは、坊主頭でもいきな顔立ちだった。彼女は縁側にちかい伊予簾《いよす》のかげに茵《しとね》を敷いていて――縁側には初夏ならば、すいすいと伸びた菖蒲《しょうぶ》が、たっぷり筒形の花いけに入れてあったり、万年青《おもと》の鉢があったり石菖《せきしょう》の鉢がおいてあったりした。おばあさんは長刀《なぎなた》ほおずきを鳴らすのが好きで、
「おッさん、あっしにも一本おくれよ。おやおや、こりゃばかにいいんだね。」
なんて、楽しんで、さきを切ってもらって器用に鳴らした。丈《たけ》が二寸からある、長刀《なぎなた》ほおずきは、その時分でも一本一銭五厘から二銭位した。
 その坊主頭の盲目のおばあさんが、キンボウとヤイチャンを前にならべて、銹《さび》た渋いのど[#「のど」に傍点]で唄の素稽古《すげいこ》をする。そばで聞いていて二絃琴の唄はすっかり暗唱しているのだ。おッさんの――おしょさんというのがそうきこえる――あすこんとこは巧《うま》いね、好《い》い節《ふし》だなんていう。この坊さん昔はよっぽどそれ者だったのに違いない。横網河岸《よこあみがし》の備前家《びぜんさま》(今の安田公園の処)のお妾《めかけ》お花さんが、毎日|水門《すいもん》から屋根船を出して、今戸河岸《いまどがし》の市川権十郎《かわさきや》の家へいったのでお家騒動が起り、大崎の下邸《しもやしき》へ移転するという噂《うわさ》から、この坊さんもそんなような前身で、大崎の下邸には由縁《ゆかり》のお墓もあるといった。
「御前様《ごぜんさま》はお美しい方だったね、殿様が知事様におなりになった時、御一所にお立《たち》になるので両国の店の前で、ちょいと御挨拶もうしあげた時見上げた事があるけれど、大きなお眼で、真っ黒なお髪に、そりゃあ鼈甲《べっこう》の笄《こうがい》がテラテラして、白襟に、藍《あい》色の御紋附きだったけれど、目が覚めるようだった。」
とおしょさんもいった。両国の店ってなあにと聞くと、
「困ったねえ。」
と母娘《おやこ》して笑った。おしょさんの家《うち》の軒燈《けんとう》には山崎《やまざき》としてあるが、両国の並び茶屋の名も「山崎」だったと坊さんのおばあさんがいった。
 あんぽんたんの好奇心は拡大《ひろげ》られた。並び茶屋を出したおしょさんの若い時分はどんなだろう、盲目のおばあさんの、大名のお部屋さま時代はどんなだろう。そこに、くさ草紙《ぞうし》の世界が現われ綿絵の姿が髣髴《ほうふつ》とした。田之助《たのすけ》が動き、秀佳《しゅうか》が語る――
「ヘイ、お暑う、伝吉でございます。」
 芝居茶屋の若い衆――といっても、もう頭の禿《はげ》ている伝さんが、今戸《いまど》のおせんべいを持ってくる。
「いい香《にお》いだね。」
 おしょさんは袋をあけて見ながらいう、そこのおせんべいは、持ってくる時間をいって、頼んで焼いておいてもらうのだから、ほんとの親切を悦《よろこ》んですぐお茶を入れさせる。
「こんどはひとつどうぞ。」
 芝居の話と伝さんの娘の話をして、さんざい袋をもらってかえる。と、入れちがいに、
「へえ、伝さんが来ましたか?」
と女中さんと話ながら清《せい》さんが入って来た。伝さんとおなじの、黒い、麻の着物の尻《しり》はしょりをおろして、手ぬぐいで、麻裏草履を穿《は》いて来た足前《つまさき》をはたいて、上って来て、キチンとお辞儀をした。
「お暑うございますな。」
 茶献上《ちゃけんじょう》の帯の背にはさんだ白扇をとって、煽《あお》ぎながら、畳んだ手拭の中をかえして頸《くび》を拭《ふ》いた。小判形の団扇《うちわ》が二本、今戸名物、船佐《ふなさ》の佃煮《つくだに》の折が出される。
「川崎屋までまいりましたから、これは私のわざっとお土産《みやげ》で。」
 清さんの兄貴は、川崎屋権十郎の古い男衆だった。
 こういう人たちは、中村座が閉場《あけ》ば中村座の何屋へ、新富座ならば何処《どこ》と、三、四軒の芝居茶屋を助けもするが、歌舞伎の梅林《ばいりん》とか三洲屋とか、一、二の茶屋で顔のうれている男衆たちだった。
「毎年|是真《ぜしん》さんでござんすから、今年は河竹さんのにお頼みいたしまして――」
 それは団扇の絵のことだった。河竹さんとは、本所《ほんじょ》に住む黙阿弥翁《もくあみおう》のことで、二人娘の妹さんが絵をかき、姉さんはお父さんの脚本のお手伝いをした。
 おしょさんの家《うち》には、そうした団扇に虫がつかないように、細い磨竹《みがきだけ》に通して、室《へや》の隅に三角に、鴨居《かもい》へ渡してあった。
「おしょさん、今年のお浴衣《そろい》は、大層|好《い》いっておはなしですから、夜《よ》芝居で、お浴衣《ゆかた》見物でございますから、ひとつどうぞ、御見物を――」
 おしょさんは、今年も船で納涼の催しをと考えていたのをやめて、自慢の、その頃ではめずらしい素鼠地《すねずみじ》の、藤の揃い浴衣で見物することにきめる。
 二絃琴を拡《ひろ》めようとする気持ちと、おしょさんの派手ずきとから、引幕《ひきまく》を贈ることもあった。藤の花の下に緋《ひ》の敷もの、二絃琴を描いてあとは地紙《じがみ》ぢらしにして名とりの名を書いたりした。
 お坊さんのお婆さんは、――伊藤凌潮《いとうりょうちょう》という軍談読みの妻君になって、おしょさんや、おしょさんの姉さんで、吉原で清元で売った芸者――古帳面屋のお金ちゃんの義母《おっか》さんや、末の妹の、その時分には死んでしまってたが、阪東百代《ばんどうももよ》という踊りの師匠のお母さんになったのだ。おしょさんが若かった時、太政官の参内の馬車の腰かけの下へかくれていったと、やかましく噂《うわさ》された事もあったそうだ。お若い××様が御巡幸の時、百代と二人ならんだ姿をお見詰めになって――たしかにお目にとまったのだが、まだお歯黒をおつけになって、お童様《ちごさま》だったから――なんて話もきくともなくきいた。



底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店
   1983(昭和58)年8月16日第1刷発行
   2000(平成12)年8月17日第6刷発行
底本の親本:「旧聞日本橋」岡倉書房
   1935(昭和10)年刊行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2003年7月4日作成
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