ぬけた。ポコンと穴があいて、血がいくらでも出る。口もゆすがせないで、きたない手でおじいさんは白い粉の薬《くす》りをつけてくれた。残りを小袋に入れて渡して、血がとまらなかったらつけろといった。お代が弐銭だというので、なんぼなんでも安くってびっくりした。蔵前の長井兵助の家は、店で歯磨きや楊子《ようじ》を売っていて、大きな長い刀が飾ってあった。ヤッと掛声してすぐに抜いた。代は五銭の時と十銭の時があった。浅草公園でお馴染《なじみ》だから、大概長井兵助へゆくのだが、お友達におしえられてこの汚いおじいさんの家へいってしまった。
花火の晩といえば、ある年、丁度花火の盛りな時刻に光りものが通った。二升もはいる大|薬缶《やかん》ほどの、鈍く光ったものが、地の上二、三尺の高さで、プカリプカリと流れていった。アンポンタンの家《うち》の小さい女中は、裏の方にある厠《はばかり》から出たとき、すぐそばをスーッと流れていったのでキャッと声をたてた。祖母は金玉《かねだま》だといった。金盥《かなだらい》か鍋《なべ》でふせなければだめなのだといった。都会の夏の夜でさえ無気味なものが、人里はなれた原っぱなんぞでぶつかったらどんなだろう。
花火の風船のように飛んでしまった。はじめの牢屋《ろうや》の原へ帰ろう。中洲に賑いをとられない前は、牢屋の原が小屋がけ見世もの場でさかっていた。つとめて土地の不浄を払おうとしたのであろう。表通りの鉄道馬車路を商家にし、不浄門(死体をかつぎ出した裏門)のあった通りと、大牢《ろう》のあった方の溝《みぞ》を埋めて、その側の表に面した方へ、新高野山大安楽寺《こうぼうさま》と身延山久遠寺《にちれんさま》と、村雲別院《むらくもさま》と、円光大師寺《えんこうだいしさま》の四ツの寺院《おてら》を建立《こんりゅう》し、以前《もと》の表門の口が憲兵|屯所《とんしょ》で、ぐるりをとりまいたが、寺院がそう立揃わないうちは、真中の空地に綱わたりや、野天の軽業《かるわざ》がかかっていた。
その中でも、蝋燭屋《ろうそくや》一蝶《いっちょう》という仕掛け怪談話が非常にうけた。そまつなつくりではあったが、寄席在《よせい》よりも広いくらいな地どりで、だんだん半永久に造り直していって、すっかり座れるようになっていた。寄席と違うのは、客席の前の方――入口近くでも曲芸をやり高座でもやるのだ。籠《かご》抜け――あるいは白刃を縦横に突通し、ある時は蝋燭の灯を透間なく、横筒の蛇籠のように長い籠にならべて、その中を桃色の鉢巻きをした子供が、繻子《しゅす》の着物に袴《はかま》をつけて、掛声もろとも難なく飛抜ける。その鮮かな曲芸と、曲芸師の身なりが、漸《ようや》くポツポツ拾いよみしていた、曲亭馬琴《きょくていばきん》の『八犬伝』のなかの犬阪毛野《いぬさかけの》を思わせて、アンポンタンの空想ずきを非常に楽しませてくれた。もとより寄席ではない見世ものだから、その曲芸は客を誘うために、あるていどまで、外《おもて》に立見する客へも見せるから、人気はすばらしかった。怪談の前になると、立っているものも続々はいってきた。
高座の仕掛けは、その頃はやった何段返しとかいうので、後景《はいけい》が幾段にも変るのだった。場内が暗くなると行燈のそばに幽霊が立っている。青テルの人魂《ひとだま》が燃えゆれる――
「かあいやそなたは迷うたナァ」
と真打《しんう》ちの一蝶親方が舞台がかりでいうと、
「うらめしや……」
なんとかと幽霊がいうていた。だが、あたしはぞくぞく[#「ぞくぞく」に傍点]怖《こわ》がった。いま考えると、なかなか策師《さくし》だったといえる。江戸人の――いえ、当時の日本人の誰にも感じられる、厭《いや》な連想をもった、場処がらである。江戸三百年、どんなに無辜《むこ》の民が泣いたか知れない、脅《おび》やかされた牢屋のあとだ。ことに世の中が変動する前には、安政の大疑獄以来、幾多有為の士を、再び天日《てんぴ》の下にかえさず呑《の》んでしまった牢屋の所在地だ。鬼哭啾々《きこくしゅうしゅう》、人の心は、そこの土を踏むだけで傷みに顫《ふる》える。その心理を利用したのだ。たね[#「たね」に傍点]はどんなチャチなものでもかまわない。掴《つか》んだものが生きている。見る方、聴く方の、お客の方から働らきかけてくる神経の戦《おのの》きがある――そして、下座《げざ》にはおあつらえむきの禅のつとめ[#「つとめ」に傍点](鳴ものの名称)和讃やらお題目やら、お線香の匂いはひとりでに流れてくる。
人情の弱点の怖いもの見たさ、客は昼も夜も満員――夜は通りの四つ角の夜店と、陽気な桜湯の縁台が、若衆たちのちぢまった肝ったまをホッと救う――
底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店
1983(昭和58)年8月16日第1刷発行
2000(平成12)年8月17日第6刷発行
底本の親本:「旧聞日本橋」岡倉書房
1935(昭和10)年刊行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2003年7月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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