をお着せなさい、川風はさむいわとでもいったのであろう、艶《えん》な声がしてフワリと私の上に投《ほう》りこまれたものは、軽いフワフワした薄綿のねんねこ[#「ねんねこ」に傍点]だった。多分帰りの夜風を用心して入れてきたものだろう。私はピョコンと父の膝から頭をあげた。先方は紅提燈《あかちょうちん》が沢山ぶらさがっているので船の中はあかるい。私たちよりずっと高いところにいるように、膝の方まで見えた。意気な年増《としま》というのだろう、女ばかりがいた。みんなはで[#「はで」に傍点]な声を出した。
 あたしは終りの花火なんか、あとがさびしいから見ないで、そのねんねこ[#「ねんねこ」に傍点]にふっさりと包まれて父の膝に狸寝《たぬきね》をしていた。子供というもの案外ばか[#「ばか」に傍点]にならないと思うのは、今の自分よりよっぽど不正直で要領を得ている。そして元柳ばしぎわに船をつけてもらうと、抱っこしたまま、いい匂いのものにくるまれて、薬研堀《やげんぼり》の囲いものの家へ投りこまれた。
 話はそれたが三河様というのは、
[#ここから2字下げ]
風ふくな、ナア吹くな、
三河様の屋根で、
銀羽根ひろって……
[#ここで字下げ終わり]
と羽根つきながら風が出てくると呪《まじな》いに唄う大川端の下邸跡《しもやしきあと》である。向岸には大橋の火の見|櫓《やぐら》があって、江戸風景にはなじみ深い景色である。細川下邸の清正公門前の大きな椎《しい》の木の並んだ下には、少壮時代の前かけがけ姿の清方《きよかた》さんが長く住まわれて、門柱に「かぶらき」と書いた仮名文字の表札がかけてあった。それより前のことだが、清正公様の傍《わき》に歯をいたくなく抜いてくれる家があるというのでいったら、小さな家で、古い障子を二枚たてて、歯みがきを売っている汚いおじいさんが抜いてくれた。大きな樹《き》のうれ[#「うれ」に傍点]に、小さい蚊虫《かむし》がフヨフヨと飛んでいる夕暮れでうす暗い障子のかげで、はげた黒ぬりの耳盥《みみだらい》を片手にもたせて、上をむきなさいといわれた。おじいさんの膝頭《ひざがしら》に頭のうしろをもたせかけ、仰向《あおむ》けにさせられると、その腐ったような顔とむきあった。おじいさんはやっとこ[#「やっとこ」に傍点]みたいなものをもっている。怖いから眼をつぶったら、ガクリと音がして揺《うご》いていた歯がぬけた。ポコンと穴があいて、血がいくらでも出る。口もゆすがせないで、きたない手でおじいさんは白い粉の薬《くす》りをつけてくれた。残りを小袋に入れて渡して、血がとまらなかったらつけろといった。お代が弐銭だというので、なんぼなんでも安くってびっくりした。蔵前の長井兵助の家は、店で歯磨きや楊子《ようじ》を売っていて、大きな長い刀が飾ってあった。ヤッと掛声してすぐに抜いた。代は五銭の時と十銭の時があった。浅草公園でお馴染《なじみ》だから、大概長井兵助へゆくのだが、お友達におしえられてこの汚いおじいさんの家へいってしまった。
 花火の晩といえば、ある年、丁度花火の盛りな時刻に光りものが通った。二升もはいる大|薬缶《やかん》ほどの、鈍く光ったものが、地の上二、三尺の高さで、プカリプカリと流れていった。アンポンタンの家《うち》の小さい女中は、裏の方にある厠《はばかり》から出たとき、すぐそばをスーッと流れていったのでキャッと声をたてた。祖母は金玉《かねだま》だといった。金盥《かなだらい》か鍋《なべ》でふせなければだめなのだといった。都会の夏の夜でさえ無気味なものが、人里はなれた原っぱなんぞでぶつかったらどんなだろう。
 花火の風船のように飛んでしまった。はじめの牢屋《ろうや》の原へ帰ろう。中洲に賑いをとられない前は、牢屋の原が小屋がけ見世もの場でさかっていた。つとめて土地の不浄を払おうとしたのであろう。表通りの鉄道馬車路を商家にし、不浄門(死体をかつぎ出した裏門)のあった通りと、大牢《ろう》のあった方の溝《みぞ》を埋めて、その側の表に面した方へ、新高野山大安楽寺《こうぼうさま》と身延山久遠寺《にちれんさま》と、村雲別院《むらくもさま》と、円光大師寺《えんこうだいしさま》の四ツの寺院《おてら》を建立《こんりゅう》し、以前《もと》の表門の口が憲兵|屯所《とんしょ》で、ぐるりをとりまいたが、寺院がそう立揃わないうちは、真中の空地に綱わたりや、野天の軽業《かるわざ》がかかっていた。
 その中でも、蝋燭屋《ろうそくや》一蝶《いっちょう》という仕掛け怪談話が非常にうけた。そまつなつくりではあったが、寄席在《よせい》よりも広いくらいな地どりで、だんだん半永久に造り直していって、すっかり座れるようになっていた。寄席と違うのは、客席の前の方――入口近くでも曲芸をやり高座でもやるのだ。籠《かご》抜け―
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