、すこしはなれて母、母の横から小さい姉妹が折曲《おりまが》って、祖母の前が丁度私の居場所になる。みんな、各自《めいめい》のお膳を行儀よくひかえる。祖母は何もかも一番早くゆくから一番さきにしまいになる。すると、長い煙管《キセル》をついて監視人と早がわり、御飯粒ひとつでもこぼすと、その始末をしてしまわないうちは食べさせない。あたしは味噌汁《おみおつけ》が嫌いなので、ぽっちりとお椀《わん》の底の方へよそってもらってもつい残す。とにかく祖母の目はあたしにばかりそそがれているからたまらない、最後に、小言《こごと》はいわずに、
「越中立山《えっちゅうたてやま》、無限地獄に堕《おち》るぞよ。」
と、あたしのお残りへ白湯《さゆ》をさして飲んでくれる。あんぽんたんながら、それには恐縮して、老人《としより》の眼は悪かろうからと、だんだん後へさがって座るのだが、お豆腐ぎらいのために母が内密《ないしょ》で半片《はんぺん》にしてくれると、ちゃんと知っている。だから私はすべて襖《ふすま》のそとへ手をついて――只今という機械人形のようなおとなしさだ。この祖母は、ぞんざいな者が傍へくると、近よらないさきから足を踏まれない用心に、あいたあいたと言った。と、いかなぞん気[#「ぞん気」に傍点]ものでも吃驚《びっくり》して立止まるか静かにあるくかする。一挙両得、叱らずに叱られずにすむ妙諦《みょうてい》である。
そんな家から小官員《こかんいん》さんの新家庭へゆくと、伯母さんは多い毛をお釜敷《かましき》のような束髪にねじって、襟なしの着物で、おかみさんでもひっかけ[#「ひっかけ」に傍点](帯の結びよう)でなしに、ちりめんの前掛けも締めないで、机のような大きなお膳へ白い布をかけて、夕飯の時には若い牧師さんも来て座って、いろんなお皿が出てもすぐ食べないで、鉄ぶちの眼鏡をかけたその若い牧師さんが、小さな本を開いて、なんだかブツブツ言うと、みんな頭を垂れていて、終《しま》いにアーメンと呟《つぶ》やいて額と胸とに三度十字をきる。でも、大人でも、よっぽど待どおしいと見えて十字は実に早くやる、お茶碗もすぐ口にもってゆく。食物《たべもの》は家のよりまずいが牛乳の缶《かん》は毎朝台所にぶらさがっている。伯母さんは鶏卵《たまご》の黄身《きみ》をまん中にして白身を四角や三角に焼くのが上手だ、駿河台へニコライ堂が建つとき連れてって
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