羽織を着た、斬髪の伸びた村上先生がいた。御新《ごしん》さんは庭で――空地で、粗末な土《ど》べっついで御飯を焚《た》いている。その近所に、ショボショボと竹が生えているばかり、大きい方の娘さんは盥《たらい》で洗濯をしていた。入口の塀の近くに、さすが井戸だけはある。下の娘も黄色い顔で、外にもあんまり出なかった。
このお医者さんは、外科はまるでだめだったと見えて、女中の足の指も腐らせてしまったが、あんぽんたんの父の手の外傷《きず》も例の膏薬で破傷風《はしょうふう》にしてしまった。がまん強い父が悪熱《おねつ》にふるえて、腕まで紫色に腫《は》れ上ってしまっても、彼は貝殻の膏薬を貼《は》りちらした。木魚のおじいさんが吃驚《びっくり》して、医の方で自分の先生のような木下さんという、旗本上りの顎髯《あごひげ》の長いお爺さんを連れて来て手術をした。妙なところへ東洋風の豪傑と江戸っ子の負け惜しみをもつ父は、かなりな大手術であったであろうに、わざわざ病室から離れまで出張して――枕も上らなかったように思えたのに、八端《はったん》のねんねこ[#「ねんねこ」に傍点]を引っかけて、曲※[#「碌」のつくり、第3水準1−84−27]《きょくろく》によりかかり、高脚《コップ》のお酒を飲みながら腕を裂かれていた。
木魚のおじいさんが助手で、膿盤《のうばん》は幾個もとりかえられた。強い消毒薬のかざは流れてきたが父の苦痛はすこしも洩《も》れず、よく堪《こら》えている様子だった。私はハラハラした。障子の硝子《ガラス》の隅から細く覗《のぞ》いたが、父の姿は見えず、向うの欄間にかけてある、誰が描いた古画か、関羽《かんう》が碁盤を見つめている唐画が眼に来た。父のこの大|怪我《けが》もばからしい強がりから、爪でひっかかれたのだった。それも猫でも子供でもなく、父の部下のような若い代言人たちだった。鴎洲館とかいう、蔵前代地の、お船蔵近くの大きな貸席で、代言人の大会があった時、意見があわないとて、父の立つ演壇へ大勢が飛上って来て、真鍮《しんちゅう》の燭台で打ちかかるものや飛附いてくるものを、父は黒骨の扇――丁度他家からおくられた、熊谷直実《くまがいなおざね》の軍扇を摸したのだという、銀地に七ツ星だか月だかがついていたものだ――をもっていて身をふせいだのを、撃剣《げっけん》の方の手がきいているので鉄扇《てっせん》をもっているのかと思い、死《しに》もの狂いで噛《か》みついたりひっかいたのであった。
騒ぎのあった翌日、その狼藉《ろうぜき》者一党が揃って詑《わ》びにきたが、その時、父はすこし寒気《さむけ》がするといっていたが、左の手の甲が紫色に腫《は》れてるだけだった。対手《あいて》の幾人かは頭に鉢巻したり、腕を結わえていたりした。そしていった。
「ばかな真似をしてしまって、あれが刀だったら僕の頭は真二ツに割られているところだ。とても歩けはしないが、ぜひ詑《わ》びにゆけと皆に抱えてこられた。眼が廻るほどピンピンする。」
「一度診察させるのだ、何しろ鉄扇だから、どこか裂けるか、折れるかしてると思う。」
「ばか言え、鉄扇なんて、そんなおだやかでないものを持ってゆくものか、弁論の自由を尊重しながら、そんな野蛮な――でも、じゃないよ、見ろ、この扇だ。」
みんな変な顔をしていた。元気な父は村上さんに膏薬を貼らせながら一人の手を見ていった。
「や、その爪か! 汚ねえのだなあ。」
対手の人も、鷹《たか》の爪のようにのびて、しかも真黒な爪|垢《あか》がたまっている自分の五つの爪を眺めた。他の者たちも呆《あき》れた。だが、当然驚かなければならない医者が平然としていた。
父はお玉ヶ池の千葉について剣を学び、初期の自由党に参加した血の気が、まだおさまらなかったのであろう。友達たちも自然荒武者だった。その中に、親友であって法律の先生である村田電造という人があった。神田|猿楽町《さるがくちょう》に住んでいた。黄八丈の着物に白ちりめんの帯をしめて、女の穿《は》く吾妻下駄《あずまげた》に似た畳附きの下駄へ、白なめし[#「白なめし」に傍点]の太い鼻緒のすがったのを穿いていた。四角い顔の才槌頭《さいづちあたま》だった。静かにお茶を飲んだり、御酒をのんだりしてはなしていた。
ある時、あんぽんたんが六才か七才だったろう、初夏に、このおじさんと父との真ン中に手をひかれて、鎧橋《よろいばし》のたもとの吾妻亭[#「吾妻亭」に傍点]という洋食やへいった。おさな心に残っているのは皎々《こうこう》たるらんぷと、杉の葉と、白い卓《テーブル》クロースだった。杉の葉は日本風の家を何か装飾したものであったろう、ブランデーをかけて火を燃すオムレツも珍らしかったが、私の眼に今も鮮かにくるのは赤いツブツブのある奇麗な小さな丸《まあ》るいものだ
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