隣りが滝床《たきどこ》――滝床といっても理髪店《とこや》ではない。小さな酒屋だ。店の向って右手に、石で袖をした中に大きな水桶があって、貧乏徳久利が洗ってあり、正面に盛切《もっき》りの台が拭きこんであって、真白な塩がパイスケに山盛りになって、二ツ三ツの酒樽《さかだる》と横に角樽《つのだる》が飾ってある店だ。赤ら顔の頭の禿《は》げた滝床は、大通りの大店をもっている廻り髪結さんだったのだ。だから酒屋さんの店にいるときはすけない。たまに店にいる時は、ずっと店の前の方へ腰かけをもちだして、お客に白いきれをかけて斬髪《ざんぱつ》をしているその道具が、菊五郎のおはこ[#「おはこ」に傍点]の『梅雨小袖昔八丈《つゆこそでむかしはちじょう》』の髪結|新三《しんざ》が持ってくるのとそっくりそのままのをつかっている。滝床親方は、ずんぐりした体にめくらじま[#「めくらじま」に傍点]のやや裾みじかな着附《きつ》けでニコニコ洋鋏《はさみ》をつかっていたが、お得意なのは土鉢に植えた青い、赤い実のなっているトマトだった。
 尤《もっと》もトマトなんて、知っているものもすけなければ、食べることなどはなおさらだったであろうが、細竹でささえて、二尺五寸ばかりに伸びたそれは、葉が茂って赤い実が美しく、斬髪の客の傍におかれてあった。
「この実のなってるのなんだね?」
「西洋の唐茄子だということで――」
「へえ? 珍らしいものだが、西洋の唐茄子って、ばかに細《こま》っかいもんだな。」
 その一軒おいてとなりに紙屑屋《かみくずや》のおもんちゃんの家《うち》があった。おもんちゃんの家は表はせまくって、紙屑で一ぱいだったが――紙屑やといっても問屋だったのだ――裏には空地があって、糸瓜《へちま》の棚が田舎めかしかった。その後に空瓶の小屋があった。空地では子供角力が夏になると催うされた。
 おもんちゃんは疳《かん》の高い子だったので、みんなから狂気《きちがい》あつかいにされて、ある日大門通りの四ツ角で、いたずら子供たちにとりまかれ、肌ぬぎになって折れた鉄物《かなもの》を振って悪童を追いかけていた。花井お梅の刃傷《にんじょう》の評判が高かったので「花井お梅、花井お梅」と、はやしたてられていた。
 その隣家《となり》が小川湯、そうして三、四軒おいておあぐさんの家であった。その向い側で面白い家をあげれば、角が土蔵から煙筒の出ている※[#「◯」の中に「十」、屋号を示す記号、231−1]《まるじゅう》芋屋の横腹、金物問屋|金星《かねぼし》の庭口、仕立屋井阪さん、その隣りも大丸の仕立屋さん、猫ばあさんのいた露路口、井阪さんが丁字髷《ちょんまげ》で、ここの親方はへッつい[#「へッつい」に傍点]という髪《あたま》の見本を見せておいてくれた鍛冶屋《かじや》さん――表に大きな船板の水槽があって、丸子や琉金《りゅうきん》の美事なのが沢山飼養されていた。鍛冶屋の店さきには、よくこうした水箱があったがあれはなんのためだろうか、刀鍛冶などの流れの末とでもいうしるしなのかどうか。その隣りが芝居や、講談などにある、芝日影町の古着屋で、嫁入着物に糊附《のりづ》けものを売ったため、嫁御寮《よめごりょう》の変死から、その母親が怨みの呪《のろ》い「め」と書いては焼火箸《やけひばし》をつきさしていたという、怪談ばなしの本家江島屋の、後家になった娘のすんでいた格子戸づくり、それからどこかの荷蔵があって、丁度滝床の向うが、吾平さんという馬具屋であった。
 吾平さんは顔の大きな、鼻も大きな、眼のちいさい人で、たっぷりした白髪をなでつけ、大きな鼈甲《べっこう》ぶちの眼鏡《めがね》を鼻の上にのせて、紫に葵《あおい》を白くぬいた和鞍《わぐら》や、朱房《しゅぶさ》の馬連《ばれん》や染革《そめかわ》の手甲《てっこう》などをいじっていた。鞭《むち》とか、馬びしゃくとかいったものは一かたまりずつになって沢山上から釣してあった。漸《ようや》く一間半位の間口だったが、賑やかな見あきない店で職人もせわしく働いていた。前を通るとニカワを煮る匂いがした。
 村上という医者の家が一番変っていた。どんな時、誰がどんな病気でも、あんぽんたんが薬をもらってくる時、変だなあとおもうのは、練薬と膏薬《こうやく》の二種《ふたいろ》だけだった。練薬は曲物《まげもの》に入れ、膏薬は貝殻《かいがら》に入れて渡した。
 敷石を二、三段上って古板塀の板戸を明け一足はいると、真四角な、かなりの広さの地所へ隅の方に焼け蔵が一戸前《ひととまえ》あるだけで、観音開きの蔵前を二、三段上ると、網戸に白紙《かみ》が張ってある。くぐりをあけてはいると、ハイカラにいえば二階はあるが一間の家で、入口の横に薬の名を書いた白紙を張りつけた、引出しの沢山ある薬だんすがおいてあった。薄暗い中に、紋附きの
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