った。たしか一つぶしかついていなかったが、あたしが凝《じっ》と眺めていると、父が気がついて、自分のお皿の中からとって、あたしの白いお皿の、青いものの上にのせてくれた。すると、村田さんもおなじように、近眼鏡を近よせて、転がさないようにナイフの上に乗せてよこした。
 それがあたしの、苺《いちご》のみはじめだったのだ。食べはしなかったが、その赤さは充分に私を悦《よろ》こばせ、最後までそのお皿をとりかえさせなかった。
「おかしな奴だ、気にいったら見ているばかりで、他のものも食わなくなっちゃった。」
 父は帰ってからそういった。その癖がついて、洋食は大きくなるまで食べないで、手をつけないで、きらいではない習慣をもった。
 赤大根を知ったのもそれに似よっている。十ばかりの時、クリスチャンの伯母夫婦――台湾のおじさん――が、神田|南校《なんこ》の原《はら》の向う邸《やしき》の中にいた時分、官員だったので洋室の食堂をもっていて、泊りにゆくと洋食が出た。従弟《いとこ》と私の妹おまっちゃんと三人で、赤大根を見た時、お皿の上で、葉をつまんで独楽《こま》のように廻した。黒い立派な大きな門をもったこの邸の構内には、藤島さんという、伯父には長官にあたる造幣局のお役人のお宅があった。竹柏園《ちくはくえん》佐佐木信綱《ささきのぶつな》先生の夫人《おくさま》がそこのお嬢さんだった方だ。伯母の家の前、門のきわの竹の垣根に朝顔が咲いている家からはいい音がきこえていた、琴のこともあればヴィオリンの時もあった。幸田さんという、女でも偉い方で、一生懸命に勉強してお出なさるのだと、伯母はそのお家の前で鬼ごっこなんぞしていると叱っていった。あの有名な音楽家である幸田延子女史と、安藤幸子女史御姉妹のお若いころのことであった。
 南校《なんこ》の原《はら》とは、大学南校のあった跡だと後に知った。草ぼうぼうとして、ある宵《よい》、小川町の五十稲荷《ごとおいなり》というのへ連れてってもらった帰りに、原で人魂《ひとだま》というのを見た。
 外国人の大きな曲馬団が来て、天幕を張り、夜になると太い薪《まき》を積みあげて炎をたてるのが、下町そだちの子供に、どんなにエキゾチックな興趣《おもむき》を教えこんだであろう。私は曲馬を見るよりは、その天幕ばり全部を見るのを楽しんだ。父が来て、伯母の一家みんなと見物にゆこうとしても、私は外景
前へ 次へ
全8ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング