るのかと思い、死《しに》もの狂いで噛《か》みついたりひっかいたのであった。
 騒ぎのあった翌日、その狼藉《ろうぜき》者一党が揃って詑《わ》びにきたが、その時、父はすこし寒気《さむけ》がするといっていたが、左の手の甲が紫色に腫《は》れてるだけだった。対手《あいて》の幾人かは頭に鉢巻したり、腕を結わえていたりした。そしていった。
「ばかな真似をしてしまって、あれが刀だったら僕の頭は真二ツに割られているところだ。とても歩けはしないが、ぜひ詑《わ》びにゆけと皆に抱えてこられた。眼が廻るほどピンピンする。」
「一度診察させるのだ、何しろ鉄扇だから、どこか裂けるか、折れるかしてると思う。」
「ばか言え、鉄扇なんて、そんなおだやかでないものを持ってゆくものか、弁論の自由を尊重しながら、そんな野蛮な――でも、じゃないよ、見ろ、この扇だ。」
 みんな変な顔をしていた。元気な父は村上さんに膏薬を貼らせながら一人の手を見ていった。
「や、その爪か! 汚ねえのだなあ。」
 対手の人も、鷹《たか》の爪のようにのびて、しかも真黒な爪|垢《あか》がたまっている自分の五つの爪を眺めた。他の者たちも呆《あき》れた。だが、当然驚かなければならない医者が平然としていた。
 父はお玉ヶ池の千葉について剣を学び、初期の自由党に参加した血の気が、まだおさまらなかったのであろう。友達たちも自然荒武者だった。その中に、親友であって法律の先生である村田電造という人があった。神田|猿楽町《さるがくちょう》に住んでいた。黄八丈の着物に白ちりめんの帯をしめて、女の穿《は》く吾妻下駄《あずまげた》に似た畳附きの下駄へ、白なめし[#「白なめし」に傍点]の太い鼻緒のすがったのを穿いていた。四角い顔の才槌頭《さいづちあたま》だった。静かにお茶を飲んだり、御酒をのんだりしてはなしていた。
 ある時、あんぽんたんが六才か七才だったろう、初夏に、このおじさんと父との真ン中に手をひかれて、鎧橋《よろいばし》のたもとの吾妻亭[#「吾妻亭」に傍点]という洋食やへいった。おさな心に残っているのは皎々《こうこう》たるらんぷと、杉の葉と、白い卓《テーブル》クロースだった。杉の葉は日本風の家を何か装飾したものであったろう、ブランデーをかけて火を燃すオムレツも珍らしかったが、私の眼に今も鮮かにくるのは赤いツブツブのある奇麗な小さな丸《まあ》るいものだ
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