ながれやま》みりん瓶入の贈物《つかいもの》をもってくる彼女の背中を目で撫ていたが、彼女におとずれた幸福は、彼女にはあんまりけばけばしい色彩なので、信実はやっぱり苦労が絶《たえ》ないであろうと痛々しかった。なぜなら、らんまんたる桜の咲きさかる春のような、または篠《しの》つく豪雨のカラリと晴れた、夏のような風情《ふぜい》は彼女にはそぐわなかった。もっと地味で、堅実な愛が、彼女を待たなければ真の幸福とはいえないように思えた。私が彼女にあうことはより遠々しくなった。
放蕩児《ほうとうじ》が金を散じる時の所作《しょさ》はまず大同小異である、幇間《たいこもち》にきせる羽織が一枚か百枚の差である。芸妓のとりまきが一流と二流の相違は、料亭《ちゃや》待合《まちあい》の格式、遊ぶ土地、すべての附合の範囲と広さにおよぼしている。中村鴈治郎《なかむらがんじろう》が東都の人気を掴得《かくとく》しようとすると歌舞伎座から「まだ旦那のお招きをうけないが――」と頼みこんでくる。摂津大掾《せっつだいじょう》が来た、何が来たと東京の盛り場の人たちが大阪でうけるお礼のかえしを、一手に引受けるほど遊びに顔を売った旦那を彼女は旦那にしたのだった。しかも彼女は律気|真面目《まじめ》一方で彼をまもった。
彼女は浜町に住んだ。藤木さん夫婦は妹娘を真《しん》にして柳橋でパリパリの××家のおとっさんおっかさんになってしまった。手拭《てぬぐい》ゆかたの立膝《たてひざ》で昔話をして、小山内さんや猿之助を煙にまいていた。浜町の家には、近くの中洲《なかず》の真砂座《まさござ》にたむろしていた、伊井、河合、村田、福島、木村などの新派俳優の下廻りが、どっちが楽屋かわからないほど入込んでいた。藤井|六輔《ろくすけ》とか小堀誠などは自分の家のようにまめに働いていた。芸妓、各遊芸の家元たち、はなしか、幇間《たいこもち》、集ればワッワッいう騒ぎだった。お麻さんはいつもそれらの後始末ばかりしていたが、彼女は一中節《いっちゅうぶし》の都の家元から一稲の名をもらっていたので、その名びろめを旦那が思いたった時は――彼女に対する日頃の謝意というより自分の道楽の方が勝ったであろうが、二日に渡った盛大な催しを柳橋の亀清楼《かめせい》で催した。仕着せ、まきもの、配りもの、飾りもの、ありきたりな凝《こり》ようではなかった。芦《あし》に都鳥《みやこどり》を描いた提灯《ちょうちん》は、さしもに広い亀清楼の楼上楼下にかけつらねられて、その灯入りの美しさ――岸につないだ家根船《やねぶね》にまでおなじ飾りが水にゆれて流れた。
浜町の岡田では、この旦那のために舞台をつくって、あの広い家中を、一間一間楽屋にして素人芝居が開催される。もとより番附その他の設備、楽屋の積物、いうまでもなく人気役者の名題披露の通りにした。とうとう新富座まで借り入れてやったこともある。
お麻さんと旦那の生活はこの位にしておこう。お麻さん夫婦の浜町の家に特記してよいのは、小山内氏のために潮文閣を挙《おこ》して第一期『新思潮』を出したことである。そのころとしては作家たちを花屋敷の常磐《ときわ》という一流料亭に招待したり、一足飛びに稿料何円かを支払って一般の稿料価上げを促したものである。
姉娘と妹娘との旦那の張合いで、××家は柳橋でもパリパリの芸妓家となった。妹娘の旦那、銀行の頭取りは、事ごとに木場の旦那とは違ったゆきかたで、自分の女《もの》にした妹娘の家作《かさく》に手入れをする、動産、不動産、いずれも消てしまわないものを注ぎ込んだ。その時分の藤木さんの家こそ不思議だ。敷居一つまたぐと次の間は妹の家作で、入口の方の家が姉娘の家作、どっちの道、角家の磨きあげた二階家つづきで、お麻さんの芸妓名《うりな》をついだ妹が主で、大勢の抱妓《かかえ》がいた。妹は築地のサンマー夫人のところへ会話を習いにいったりして、二階の一間には床の間に花あり、衣桁《いこう》あり、飾り棚があり、塗机があり、書道の手本と硯《すずり》が並べてあるという豪奢《ごうしゃ》な貴婦人好みであった。
産むなら女の子をうんでおけと――むべなるかなで、チンコッきりおじさんはその家のお父さんとして死んだので、実に大層もない葬式の列が編上《あみあ》げられて、死に果報なこととなったが、同時にこそばゆい華やかさでもあった。
最もその時分、角力《すもう》の親方だとか顔役だとか、人気役者とかいえば、そうした突拍子もないお祭りさわぎの葬式もあったが、チンコッきりおじさんを知っているものには不思議な微笑をもって送られた。小禽《ことり》が何百羽はいっていようかと思われるほどの大鳥|籠《かご》、万燈《まんどん》のような飾りもの、金、銀、紅、白の蓮《はす》の造花、生花はあらゆる種々な格好になってくる。竜燈、旗、天蓋《てんがい》、笙《しょう》、篳篥《ひちりき》、女たちは白無垢《しろむく》、男は編笠をかぶって――清楚《せいそ》な寝棺は一代の麗人か聖人の遺骸《いがい》をおさめたように、みずみずしい白絹におおわれ、白蓮の花が四方の角を飾って、青い簾《すだれ》が白房で半ば捲上《まきあ》げられ、それを幾町が間か肩にかつぎあげずに静々と柳橋から蔵前通りへと練り歩かれた。
それをまた迎える本堂は花を降らし、衆僧は棺をめぐって和讃《わさん》の合唱と香の煙りとで人を窒息させた。しかもまた堂にみつる会衆は、片時もだまっていられないたちの種類なので、後側の方は、おとむらいなのかお浚《さら》いなのか、ともかく寄合には相違ないが忍び笑いまでする――
私は死んでも、決して自分ひとり所有の、立派なお墓なんていうものを建るものではないと、その時思った。前にもいったが、藤木家一族の墓石は幾十基かならんでいるが、その中に、特によい位置をしめて、四角四面、見上げるほど高く、紋をつけた家根まで一ツ石でとってある、石の質も他のとは違うゆいしょありげな一基は、ずっと前の徳川将軍に昵懇《じっこん》していた女性の墓だということだった。それがまあ、なんと光栄なお見出しに預かったことか、肝心な墓の主に断わりもなく――尤《もっと》も断わろうにも百万億土にゆかなければならないが――墓主が代ったことである。これがいい、これがいい、そんな風にかんたんにとりかわってしまった。そして、かつてはどんな美女で、将軍の意志、即ち時の天下の意志を動かしたかも知れない女の墓名は、チンコッきりおじさんの名に代ってしまった。尤も、何々院殿という偉そうな名にはなったが――
しかし、もとの墓主だって、私は美女ときめているが、どんな人だったのか、それはわかりはしない。墓石が立派だから、下の人まで立派だといわれない。むしろ藤木さんなどは愛すべき俗人だ。彼は言ってるだろう。
「なんというべらぼうなこったか、干からびた鼠《ねずみ》のような俺《おれ》が――ここにはいるんだって? わしゃ、はずかしいわいなあ。」
底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店
1983(昭和58)年8月16日第1刷発行
2000(平成12)年8月17日第6刷発行
底本の親本:「旧聞日本橋」岡倉書房
1935(昭和10)年刊行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2003年7月4日作成
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