赤い椿《つばき》が咲いて、春の日は流れにポタンと花がおちる。夏ははちすの花が早抹《あさあけ》に深い靄《もや》の中にさいて、藪の蜘蛛《くも》の巣にも花にも朝露がキラキラと光って空がはれていった。藪には土橋をかけて、冠木門《かぶきもん》の大百姓の広庭《ひろにわ》と、奥深く大きな茅屋根《かややね》が見えていた。お行《ぎょう》の松にむかった方には狩野《かのう》という絵師の家が、鬱蒼《こんもり》した中に建っていた。
 お行の松は、湯川のおばあさんの茅屋からは左斜めの向側にあって、板小屋の不動堂とその後に寒竹の茂みのある幽邃《ゆうすい》な一区域になって、音無川が道路とへだてていた。裏の百姓家も植木師をかねていたので、おばあさんの小屋《こいえ》の台所の方も、雁来紅《はげいとう》、天竺葵《あおい》、鳳仙花《ほうせんか》、矢車草《やぐるまそう》などが低い垣根越しに見えて、鶏の高く刻《とき》をつくるのがきこえた。おばあさんの片折戸のせまい空地も弟切《おとぎ》り草《そう》が苔《こけ》のように生えて、水引草、秋海棠《しゅうかいどう》、おしろいの花もこぼれて咲いていた。
 あたしにはその家がめずらしくってたまらなかった。車馬の轟《とどろ》きはめったに聞こえず、人が尋ねてくるではなし、昼間家の中を青蛙《あおがえる》が飛んでいるし、道ばたの小家に簾《すだれ》を釣って、朝、夜明から戸をあけて蚊帳《かや》は釣りっぱなしで寝ていると、まだほの暗い中を人声がして前の川で顔を洗っている。
「おばあさん、あれはなに?」
ときくと、あの顔の大きなおばあさんは、あたしが大人のような返事をして、
「吉原《よしわら》がえりだろうよ、朝がえりだね、ふられて帰る果報者ってね。」
「降られてはいやしないよ、お天気だよ。」
とアンポンタンとちゃんぽんな問答をする。そうかと思うと、
「入谷《いりや》へ朝顔を見にゆこうかね、それは美事《みごと》だよ。」
「田圃《たんぼ》へ蓮《はす》の咲くのを見に行こうよう、おばあさん。ポンポンて音がするってね?」
「この子はまあ、田圃が好きで、お百姓のお嫁さんにしなければなるまいかねえ。」
 あたしは顔も洗わずに、湿った土の上へ一足、片折戸を開けて飛出すと、向うの大百姓の家のお嫁さんが生姜《しょうが》を堰《せき》でせっせと洗っていた。名物の谷中《やなか》生姜は葉が青く生々していて、黒い土がおとされると、真白な根のきわにほの赤い皮が、風呂《おゆ》から出た奇麗な人の血色のように鮮かに目立った。ボンヤリ見ている私は手伝いたくてウズウズしている。小僧さんが天秤棒《てんびんぼう》が撓《たわ》むほど、籠《かご》に一ぱいの大きな瓜《うり》を担いで来て、土橋《どばし》をギチギチ急いで渡ってた。
 町の子のあたしが、笹舟を流すことを知ったのも、麦笛を吹いたのも、夜蒔《よま》きの瓜の講釈をきいたのも、田圃へどじょう[#「どじょう」に傍点]を突きに行ったのも、根岸の里住居のたまものだった。おばあさんは切れの巾着《きんちゃく》の中味を勘定して、あたしのおやつや好きな塩鮭《しおじゃけ》の一切れを買いにいった。まだ上野山下の青石横町にいる時分に、あたしは雨上《あまあが》りに三枚橋下へ小魚を掬《すく》いにいったり、山内へ椎《しい》の実を拾いにいって、夜になるとおばあさんの不思議な話をききながら煎《い》ってもらって、椎の実の味を知った。秋のはじめになると、
「蓮《はす》の実はいらないか、蓮の実いらないか。」
と短く折った蓮の蕋《しべ》を抱えて、売ってくれる子とも馴染《なじみ》になって、蓮の実の味も知った。そんな事は日本橋油町|辺《あた》りの子供の誰一人知ってはいなかった。
 田圃道を歩きながら、おばあさんは錦絵《にしきえ》のような話をはじめる。
「根岸にはお大名の別荘《しもやしき》が沢山あるけれど、加賀様のお姫さまがたは揃ってお美しかった。お前さん、桜《はな》の咲くころに、お三方《さんかた》もお四方《よかた》も揃ってお出《いで》になると、まるで田舎源氏の挿絵のようさね。」
「おばあさん、お姫様はピラピラをさげてる?」
「お袿《かけ》は召ていないが、お振袖で、曙染《あけぼのぞめ》で、それはそれは奇麗ですよ、お前さんに見せたいね。ほんと! 桜の花よりものいう花がきれいさ。」
 あたしにはまたちょいとこの会話《はなし》が分らなくなる。牛乳《ちち》を呑《の》ましてくれる家《うち》の門《かど》に来た。
「ここらはもう三河島《みかわしま》田圃。」
とおばあさんがいったから、三河島の方へ寄っていたのであろう。一構《ひとかまえ》の百姓家は牧場になっていた。牛の牧場なんてそれまで見た事もない私だった。優しい眼をした黄と白の斑牛《まだらうし》が寝そべっていて、可愛い仔牛《こうし》がいたが、生きた牛の添《そ
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