ば》にいった事はないし、臆病な私は怖《こわ》かった。若いキリリとした女房《おかみ》さんが、堀井戸に釣るしてあった鑵《かん》からコップへ牛乳を酌《く》んでくれた。濃い、甘い、冷たい牛乳だった。
「お砂糖がはいっているよ。」
と私が悦《よろこ》んでいうと、おかみさんとお亭主が笑っていった。
「お砂糖はいれてないけれど、絞りたての甘《うま》いのをあげたのさ。」
こんな風《ふう》におばあさんはよく私を連れて他家《よそ》へいった。私が本を読みたがると、何処《どこ》からか聞きだしてきてくれて、私を貸本屋へつれてゆくといった。
毎日二時過ぎると小さなお釜《かま》でお湯を湧《わか》して、盥《たらい》へ行水のお湯をとってくれた。私は裏からも表からも見透《みすか》しの場処でのんきに盥の中へ座る。雨蛙にもお湯をぶっかける。大きな山|蟻《あり》が逃出すのを面白がる。或《ある》時は蟇《ひきがえる》と睨《にら》めっこしながら盥の中にかしこまっている。涼しい風にくしゃみをするとおばあさんが声をかける。
「さあ、もういいよ。」
汗知らずをまだらにはたきつけて貸本屋さんへ出かける――
貸本屋も御隠居処なのである。寒竹の垣根つづきの細道を、寒竹の竹の子を抜きながらゆくと何処でか藪鶯《やぶうぐいす》が鳴いている。カラカラと、辷《すべ》りのいい門の戸をあけると、踏石《ふみいし》だけ残して、いろとりどりな松葉|牡丹《ぼたん》が一面。軒下に下っている鈴をならすと、切髪の綺麗《きれい》な女隠居が出てきて、両手を揃えて丁寧におじぎをした。
『妙々車』『浅間嶽』などが私の膝の前に高く積み重ねられた。私は幾度か見たものもあればまだ一度も開いたことのないものもあった。小さな私が一心を魅《と》られてしまっている時にこの二人の閑人――老婆がどんな話をしていたのか、思出すことも出来ない。
「これだけ拝借して、一日三銭でよいと仰《おっ》しゃったよ。」
湯川のおばあさんは帰り道でそういった。私の本の見方が、大人より大切にして、キチンと座って読んでいるのに、先方の老女が感心して安くしてくれたのだと、――それにしても、あんまり少額《すけ》ないお礼に驚いた。
「宅にあるのを、みんな読ましておあげなさい。お好《すき》なものを見せないなんて、わからない親御《おやご》さんだ。」
そうも言ったのだそうだ。けれどその家にはくさ草紙よりほかなかった。
夕暮が来て、草双紙にもあきると、おばあさんを誘ってまた田圃に出た。蛍《ほたる》がチラホラ飛んでいる。小さな棺を担がした人がスタスタ通ってゆく。前の堰《せき》では農具を洗っている。鍬《くわ》が暗《やみ》にも光る――その側《そば》で、大きな瓜を二ツに裂いている。
「この種をも一度|蒔《ま》くので、熟《う》れすぎたから塩押しにするのだ。」
と教えてくれる。三河島田圃の方の空が明るくて、賑やかな物音のする心地《ここち》がすると、あっちが吉原だと言った。昼間よりも、田圃みちを人が通っている。
谷中|芋坂《いもざか》の名物|羽二重《はぶたえ》団子《だんご》がアンポンタンのお茶受けに好きだった。その団子屋の近くは藤木さんの住居になった寮だ。腰障子の土間の広い、荒っぽい材組《きぐみ》で、柱なんぞも太かったが、簡素な造りで、藤木さんは手拭ゆかたを着て、目白《めじろ》をおとりにして木立に小鳥籠が幾個《いくつ》かかけてあった。瑠璃《るり》の朝顔が大輪に咲くのを自慢した。
朝顔を見にいった朝は、なんでも朝飯を食べていってくれと夫婦していった。それは私に代表させた私一家へ対しての、夫婦《ふたり》の感謝だったのかも知れない。子供だけれど潔癖だからと、白い御飯を光るように炊《た》いてだした。お豆腐の上に、まっ青な、香《かおり》の高い紫蘇《しそ》の葉がきざんで乗せてあるのが私をよろこばせた。
「妙なものが好きだ。」
夫婦《ふたり》は私のお膳《ぜん》の前にいて、煽《あお》いでくれながらいった。
「お豆腐のきらいなのは知っているから、どうしたら好いかと心配したのだった。青いものが好きだから気に入るかと思って――」
木の枝にかけわたした竹|棹《ざお》に蔓《つる》がまきついて、唐茄子《とうなす》が二ツなっていた。
「朝顔につるべとられて――とかなんとかいうが、おやっちゃん、宅《うち》じゃあね、あれごらん、唐茄子に乾棹《ほしざお》とられてだよ。」
藤木さんは秀逸らしくいって、
「だけど、うん[#「うん」に傍点]と大きくして、油町へもってったって、こいつあ一個《ひとつ》でも、とてもあまるって、あの人数でもうな[#「うな」に傍点]らせるほど大きくするんだ。」
「桃の中から桃太郎が出るから、唐茄子から何が出るか、あたくしゃあ楽しみだよ。」
と湯川おばあさんがいった。
「違《ちげ》えね
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