も一足早ければ、何か秀逸な遺言を残したであろうに――枕許《まくらもと》に、まだよく色つかぬ柿が、枝のまま籠《かご》に入れてあった。おじいさんの心づくしであったろう。

 老妻《おばあさん》が歿《な》くなると、老爺《おじい》さんの諦《あきら》めていた硫黄熱がまた燃てきた。次の間にはもう寝ているもののない、広々した住居に独りでポツネンと机にむかって、精密な珠算と細字とが、庭仕事の相間《あいま》に初まり、やがて庭仕事の方が相間にされるようになった。薄《すすき》の穂が飛んで、室内《へやのなか》の老爺さんの肩に赤トンボがとまろうと、桜が散り込んで小禽《ことり》が障子につきあたって飛廻っても、老爺さんには東京なのか山の中なのか、室内なのか外《おもて》なのか、ムツリとして無愛想になってしまった。
 だが、もうさびしい諦めはもっていたと見えて、山へ行くとは言いださなかった。たった一度そうした望みを洩《もら》したおり、私は出してやりたかった。山で死ぬのが彼にはいいと思ったが、彼の親類は困ると言った。それから急に年齢《とし》の衰えが来た。離家《はなれ》の垣根の隅でポッチリずつの硫黄を製煉し、研究している姿が蟇《ひきがえる》のように悲しかった。
 私ひとりを便《たよ》りにでもしているように、私がものを書いている窓に来て一言二言ずついった。野球のミットのような掌《てのひら》を広げると、土佐絵に盛りあげた菜の花の黄か――黄色い蝶をつかんできたのかと思うほど鮮かな色があった。
 彼の試練からとれた硫黄だった。
「これをひとつ、お見せくださらんか。」
 老爺さんの頭には、その時、時の知名の成功者たちの名がうかんでいたに相違なかった。
「実業家や学者にもお近づきがあるでしょうから。」
 鮮かな黄色は、私の黒ぬりの机の上にこぼれた。老爺さんは懐《ふところ》から部厚な書きものを出した。
 硫黄採煉明細書と版に彫ったように正しく表書《おもてがき》がしてある。
「硫黄は釜《かま》が痛むものでしてな。」
と老爺さんはやっと発明した製煉釜のことを手真似で話した。私は老爺さんの心根を思って、駄目と知りながら知己《ちき》の鉱山所長にその明細書を見せたら、その人は首を振っていった。
「惜しいことにみんな外国で発明しられてしまっている。機械はもっと簡便に出来る。だが九十の老爺さんが、よく実地から此処《ここ》まで考えたものだ。」
 私は九十の老爺さんが以下だけを使って、パスしなかった事はきかさなかった。彼は恐悦《きょうえつ》の至りだと言った。
 明治四十三年の九月に佃島に津波《つなみ》が来た。京橋の築地|河岸《がし》一体にまでその水は押上げたほどで、洲崎《すざき》や月島は被害が甚《ひど》かった。庭の眺めになるほどの距離にある相生橋から越中島の商船学校前には、避難して来ていた和船《おおぶね》が幾艘《いくそう》も道路に座ってしまったほどで、帝都には珍らしい津波だった。私《あたし》の家《うち》は老人たちの丹精の小松が成長して、しっかり根をかためていたせいか防波堤《どて》は崩れなかった。海水《みず》が高いと案じ油断はしていなかったが、うとうと眠った夜中にチョロチョロと耳近く水の音をきいた。戸外《そと》の暴風雨《あらし》にはまぎれぬ音なのですぐに目が覚めた。潮入りの池は島中でたったひとつだから、これは池があふれたな、近所に気の毒だとその瞬間に思ったが、よく目を覚すとそれどころではなかった。何もかもが浮出して器物が活動している。ボンヤリしているのは人間だけだった。
 電燈は断《たた》れた。幸《さいわい》に満月の夜ごろだから、月はなくても空は真暗というほどではない。
 離家から、二階にいた中学生の弟が裸で、胸まで水に浸って、探険用の燈火《あかり》をつけてやってきた。二匹の犬がザブザブ泳いで後について来た。
「老爺さんをともかく二階へあげておくれ。」
というと弟が答えた。
「とても駄目だよ、おやっちゃんでも言わなければ動きゃしない。なんてったって、戸棚の前に座って、硫黄をいじくってる。」
「でも水で大変だろう。」
「うん、床が高いけれど、座ってる胸のところへ来ている。」
「硫黄をみんな二階へあげてあげるといっておくれ。」
「こっちへ連れて来たいが、老人《としより》だから流されるだろう、とても甚《ひど》いや、僕でもあぶない。」
 私は突嗟《とっさ》に富士登山の杖《つえ》が浮いてるのをとって、窓の外の弟にわたした。
 水が引いたあと、ヘドロを掻《か》くのと、濡《ぬ》れた衣物《きもの》や書籍が洗いきれずに腐って、夜になると川へ流して捨てた。壁は上までシケが浸上《しみあが》っていった。額などは水につかりもしないのにパクパクして、何もかもが病気になった状態だった。私は二人の老人の健康を気づかった。
 離れの二階が一番乾いていたのと通風がよいので、みんなが其処《そこ》に集って暮すと、二人の老人はまた互に強がりはじめた。しかし、二人ともどこか悪くしている様子が見えた。私は七十代の父の方に説いた。
「どうも老爺さんが悪いらしいが、医者をよぶというとかからないから、お父さんが風邪をひいたことにして――」
「よし。」
 老父は至極簡単で、もの事を逆にいえば唯々諾々《いいだくだく》なのである。
「なにしろ湯川老人は年齢《とし》だからな、医者に見せなければいけない。」
 そして、その湯川老人はいった。
「ようごす、お父さんは頑固だからどうも強がっていけない。僕が医者にかかるというと、自分のためだとは知らずに、湯川もまいったなと言われるだろう。だが、なんぞ知らん、長谷川|氏《うじ》のために呼んだ医者だ。」
 カラカラと笑ってつけたした。
「幸と硫黄はなんともなかった。書物《かきもの》をすこしやられたが、それはまた書けば書けるから、どうか御安心ください。」
 だが、死期はせまっていたのだった。保《も》てるだけもった体は、ポクリと倒れるまで余命を保っていただけだつた。医者は言った。何ともないが死ぬだろうと、しかも十日はどうかと――
 葬式にも間に合わないだろうがと、台湾から出て来た例の虎と蛇薬の婿は、蚊にさされながらブツブツ言った。
「こんな事なら、わしゃ言うとかにゃならぬことや、仕ておかにゃならんことが沢山沢山あったに――おじいさん、どこまで他人《ひと》を困らせる人か、わしゃもう、若いころからこの人のためには、ほん、サンザンな目に逢うとるわ。」
 医者も驚いた。こんな事はないがと――そのくせ死期は来ているのだが。
「おじいさん癌《がん》があったのだね、驚いたなあ、何時《いつ》ころからなんだ。」
 医者にもわからないものが、誰にも分りようはなかった。強い、しどい、刺戟《しげき》のある臭気を、香を焚《た》き、鼻の穴へ香水をつけた綿を挿《さし》て私が世話をすると、その時だけ意識が分明《はっきり》して、他の者には近よらせなかった。そしてお世辞がよかった。
 何に拘《こだ》わっているのか――と私は考えた。
「おじいさん、お酒がほしい?」
 ニコリとしたような表情だ、私は薬指のさきに、薄めた清酒をつけて嘗《な》めさせるとおちょぼ口をした。
「ほう、観音様だな。」
 傍から首を出した妹を見てお世辞をつぎたした。
「イヨウ、綺麗になりやがあったな、弁天様だぞ。」
 酒をもひとつというように口をあけた。そして露を吸うように、垂らされる雫《しずく》が舌のさきに辷《すべ》ると、
 ――富士の、白さけ……
と幽《かすか》な幽な声で転がすように唄《うた》った。正《まさ》しく生ているおりなら、笑《え》みくずれるほどに笑ったのであろう。唇をパクリとした。
 でも臨終ではない。ああ結構な、いい往生ですいい往生ですと寄って来たものはポカンとして当惑した顔をした。
 私の心は暗かった。長い一生、一念を封じこめた硫黄山《やま》に心を残しているのではあるまいかと。
「老爺さん、硫黄鉱山《やま》が売れましたよ。」
「ほ。」
 パッと、死んだ瞳《ひとみ》に瞬間|灯《ひ》がともった。手を差出した。そこらにあった重いものを掴《つか》んだ手を私は老爺さんの手に触れさせた。
「有難い――みんなにやってくれ。」
 私はほほえましくお伽噺《とぎばなし》のように言った。
「老爺さんの黄金《きん》の像を建ててあげましょう。」
「ほ。」
 満足な瞑目《めいもく》だった。
 厳粛にしゃちこばった人たちの方がすぐに悪口した。欲ばっていると――
 私にはそう思えなかった。

 初秋の風に竹がサラサラ鳴る暁、柩《ひつぎ》は出てゆくのだった。戒名は硫黄|居士《こじ》と私がつけたが、親類の望みで二字に離してくれというので、硫石黄竹居士になった。私は臨終に嘘をついたのを、今でもちっとも悪いと思っていない。私はみんなが、さまではというのに反対して、黄竹居士湯川老人の柩の中へ、標本になっていた硫黄の、ありったけの種類をすこしずつ入れてやった。これほどの供養はないと思っている。



底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店
   1983(昭和58)年8月16日第1刷発行
   2000(平成12)年8月17日第6刷発行
底本の親本:「旧聞日本橋」岡倉書房
   1935(昭和10)年刊行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2003年7月4日作成
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