だ。彼女が今でも一番恋しい景色は遠州御前崎の今切《いまぎ》れの渡しのところと味方が原だという。彼女は早抹《あさまだき》、父親をはげまして自ら小船を漕いで塩浜へとゆく。十二の彼女の海水《しお》の撒《ま》きぶりには及ぶものがなかったほど、終日を働きくらした。
と姉娘に縁談が起った。親たちは江戸がえりの娘の美しさゆえに――と思った善人である、先方が旗本で、旗本が口をきいてくれたのだからといった具合で悦《よろこ》んだ。仲人《なこうど》が来た。夏のことで白扇《はくせん》をサラリと開くと懐《ふところ》から贈物の目録《もくろく》書と、水引《みずひき》をかけた封金を出して乗せたが、
「芽出度《めでたく》御受納くださるように。」
と丁重に述べておいて、下げた頭をあげると、動作のゆっくりした湯川氏が手をださぬうちに扇の要《かなめ》をくるりと向けかえて、
「御同様に、此方様《こなたさま》からも御贈《おおく》りでござろうから、諸事節約、緊縮《きんしゅく》して――」
とかなんとか浜口内閣のようなことを言って、もってきた結納金《ゆいのうきん》をまた懐中に入れてしまった。それでも好人物な、他人《ひと》を疑うことを
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