歳だったが、男髷《おとこまげ》にしていたので小刀を差して連れられて逃げた。吉原の土手下で夜を明した時、どこのものかが名物の土手の金《きん》つばをくれたが、その大きさとうまさを何時までも忘れなかったと言った。そうしてこの新御直参一家はみずから没落し、徳川十六代|亀之助《かめのすけ》様のお供、静岡|蟄居《ちっきょ》というはめにおちた。
 品川から出た二艘《にそう》の幕府の汽船に押し積まれて静岡へまでもつれてゆかれる幾百戸かの家族、それは徳川にしても厄介ものだったに違いない、ついてゆかねばならぬというものの中には、こうした一家もあったのだ。静岡へいったからとて何の当《あて》があるのではなし、百姓泣かせがいちどきに流れこんだのだった。命と体だけを積んでもらった故、勿論《もちろん》たいしたものは持ってゆきはしない、家財はみんな捨てていったのだ――こんな時だとて、上のものの方はどうにかなったであろうが、耕す土地とてそうあろうわけはなし、無禄無扶持《むろくむふち》になった小殿様たちは、三百年の太平|逸楽《いつらく》に奢《おご》って、細身《ほそみ》の刀も重いといった連中である。忽《たちま》ちにして畑の芋盗人《いもどろぼう》となり、奥方は賃仕事をして糊口《ここう》をしのいだ。
 湯川氏の家では不用になった袴《はかま》が商品に化けた。仙台平《せんだいひら》や博多《はかた》の財袋がつくられて売られた。お百姓がお客様なのであるが、売手に怖《おそ》れて近寄らないのと、売る方でも気まりが悪いので、七夕《たなばた》の星まつりのように篠《ささ》の枝へ幾個《いくつ》もくくりつけて、百姓の通る道ばたに出しておいて銭《ぜに》に代えた。
 幕府の瓦解は御直参と威張った旗本、御家人の墜落ばかりでなく、大名も廃藩置県《はいはんちけん》となったから、湯川の姉娘も帰ってきた。ともかく、わびしさのつづく中に振り袖姿の年頃の娘を見る事は親たちは嬉しかった。この娘だけが失わずにいた衣装道具を、失わさずにおかせたいと思った。とはいえ用捨《ようしゃ》なく生活《ここう》の代《しろ》は詰るばかりである。それを助けるためにお供の連中は遠州《えんしゅう》御前崎《おまえざき》に塩田《えんでん》をつくれとなった。
 あたしの母は十二になって、屈強《くっきょう》な体力をもっていた。姉と妹二人はどうにもならなかった。彼女は小船を漕《こ》い
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