で、背中が丸くて、猫がコウバコをつくったようなお婆さんだったが、後取《あとと》りにする内弟子のふうちゃんより、名取りのおなっちゃんより私を可愛がって、御自慢で附合|浚《さら》いに連れ廻った。鉄砲町の百瀬《ももせ》という接骨医の裏にいたが、半片《はんぺん》を三角にきって煮附《につ》けたお菜をわけてくれて、絵|硝子《ガラス》のはまった行燈《あんどん》のわきで一緒に御膳をたべさせるのを楽しみにしていた。お浚いの時は、二間の戸棚を開けはなし、中央《まんなか》の柱を上だけぬいて山台《やまだい》にする。十銭札や二十銭札――この間中あったのとは違った――が廃《や》められる時、戸棚の方へむかって、そっと勘定していたが、部厚なのを見せて、誰にもいってはいけないよといった。大きな、どてらを着ていた背中を忘れない。その親しみのある人から離そうというのだから、私は厭《いや》だといった。では、どっちのおしょさんにもやらないと母は叱った。

 浪花《なにわ》町の裏にいた勝梅さんも、焼け出された一家だから、三味線よりほかなんにも持ってなかった。兄さんは叔母《おば》のおやそさんそっくりの人で、肺病かもしれなかった。だんまりで袋物の細工をして、時折トントンと小さい木槌《きづち》の音をたてるばかりだった。母親がおやそさんやテンコツさんの姉さんで、額の大きい、落ちくぼんだ大きな眼――この人は美人だったと思われたが、しどくしどく貧乏にやつれて、骸骨《がいこつ》みたいな顔をしていた。おきみさんという娘は父親似で、大きなふっくりした顔と、フンダンな髪の毛をもっていたが、人がよすぎてポンとしていた。父親の善兵衛さんは、名の通りの人物で、今なら差当り、クラシカルなモデルにでも役にたとうが、そのころでは高い鼻と豊頬《ほうきょう》とのもちぐされで、水鼻をたらして、水天宮様のお札を製造する内職よりほか仕事がなかった。
「六喜美さんは好いお弟子が沢山あるけれど、勝梅さんはお前がいかないと困るのだから。」
と説きおとされて厭々通うことになった。最初は何も教えてはくれなかった。毎日一、二段ずつお浚《さら》いのように唄《うた》わされた。まあ、助六を知っていますか? ではそれを――勧進帳《かんじんちょう》も? 牛若も? まあ、あれも? これも? いい声だいい声だとそやされて無中になって唄った。しまいには、兄さんが体がわるいので気むずかしいが、やっちゃんの唄をきくと大層よろこぶからと――これは体《てい》のよいおとり[#「おとり」に傍点]で、窓はいつもあけはなち簾《すだれ》だけにしてあったから人だかりがした。そのうちポツポツお弟子が出来てきた。
 お弟子の種類が所がらで面白い、水天宮様のおきよめ[#「おきよめ」に傍点]――門前で五の日五の日に、神前へそなえる小さいお供餅《そなえもち》を細い白紙でちょいと結んで売る商売、中には売色で名高い女もあった。年増《としま》の芸妓の手ほどきなどで、そのうち裏から表通りへ越すようになった。階下《した》が住居で二階が稽古場、壁が汚《きた》ないので古新聞を一ぱいに善兵衛おじいさんが張ってくれた。勝梅さんは色白の毛の薄い大あばたで、眼が見えないから、壁の汚ないのは平気だが、子供のくせに潔癖性で、気味悪げに私が見廻すので、来なくなるといけないからと、大ふんぱつで張ってくれたのだった。
 三味線が二張に見台《けんだい》。そのほかは壁の隅に天理王を祭った白木の小机があるだけ。私はお稽古を待っているうち中、うらさびしさにボンヤリしていた。六喜美さんのところは上り口に赤い鼻緒のポックリが足も入れられないほど並んで、入口の三畳でふうちゃんが下ざらいをしているし、八畳の隅でなっちゃんが出来ない子に撥《ばち》をもってやって教えているし、おしょさんの前にはあとからあとからとおじぎをして出てゆくし、私は縁側で、千なりほおずきをとったり、石菖《せきしょう》に水をやったりして怒られたり褒《ほ》められたり、お手だまをとったり、みんなで鞠《まり》をかがったり、千代紙で畳んだ香箱へ、唄の出来ないところへ貼《は》りつける細かい紙を刻んだり、おちぢれをこしらえたり、お三宝だの菊皿だのと、時間なんて気にもしなかったのに――だが、古新聞はそれらにました悦《よろこ》びを与えた。あたしは善兵衛さんに手伝って、いつになく機嫌よく壁張りの手伝いや見物や助言をした。それは逆さまだ、こっちの面《ほう》へ糊《のり》をつけた方がよいのと。
 古新聞が壁にはられてからあたしはせっせと稽古に通うようになった。番がきてもなかなか座らない。おまけにお弟子がすけないからいつも私の番がすぐにある。私は這入《はい》ってゆくにも足音を忍ばせて、こんちはも言わないで壁にゆく。勝梅さんは内職の毛糸の編物をしているが、勘のよい盲目《めくら》さんで、ニヤニヤ笑いながらいった。
「おやっちゃん、はじめましょう。」
 あたしの背の――目のとどくところのうちは無事だったが、とうとう天理様の机がもちだされることになった。それでたりずに見台まで、鼠がひくようにひっぱった。勝梅さんが不思議がって探り廻しだしたのに吃驚《びっくり》した私は二ツ重ねた足台からおっこって、階下の人を驚かせ、二階へ駈《かけ》上らせた。勿体《もったい》ないといって盲目さんは泣いた。階下からは兄さんが、かわりの読物をかしてくれた。たしか『都の花』という新聞の附録だったが、苦しい生活を知らないあたしは遠慮もなく頁をあわせて立ちきってしまったので、コチコチの兄さんが疳癖玉《かんしゃくだま》を破裂させて梯子段《はしごだん》からどなり上って来た。だが、何が彼をそんなに怒らせたのか分らなかった。
『都の花』は近所からの借ものだったのだ。あたしはまた高いところの古新聞を読んだ。厠《かわや》のはどうにもならないが、梯子段の近辺は手すりにのぼった。窓の近くは窓にのぼり、欄間に手をかけて屋守《やもり》の這うかたちでした。向側のキリ昆布屋から危なくて見ていられないと苦情を申込んで来たので、また兄貴が呶鳴《どな》った。翌日ゆくと、善兵衛おじいさんが股《また》の間へ摺鉢《すりばち》を入れて、赤っぽい大きなお団子《だんご》をゴロゴロやっているので、摺鉢をおさえてやりながら、なににするのだときくと、ただニヤニヤ笑っていたが、やがて、古新聞がお団子色にぬりたてられた。

 兄さんが死んで、おきねさんが三ツ輪に結って、浅黄がのこをかけてお歯黒をつけて、どこかみだらな顔つきになったが、それも見えなくなった。骸骨《がいこつ》の顔に大きな即効紙を張ったおばあさんも死んだ、善兵衛さんはどうしたのか、勝梅さんは天理教をやめて耶蘇《ヤソ》になったといった。外国婦人につれられて歩いているのを見かけたといったものもある。
 おやそさんに、も一人の姉さんがあった。やっぱり近所に住んでいたが、みんな後家《ごけ》さん――後家さんはお母《っか》さん一人で、あとは老嬢《おうるどみす》だったのかも知れないが、女ばかり四人《よったり》してキチンと住んでいた。母子《おやこ》なのだか姉妹なのだかアンポンタンにはわからないほど、梯子段《はしごだん》のようにだんだん年をとった四人だった。一番若い下の娘だけが廿二、三でもあったのだろうが、一体に黒っぽいおつくり[#「おつくり」に傍点]の時代で、ことにテンコツさん一家だから花の香はなかった。大きいおうるどみすがおとよさんといって学校の先生だった。中位《ちゅうぐらい》のおうるどみすも教師だった。下のミスも先生になりかけていた。お母さんだけが台所をしていた。この女ばかりの家は用心堅固で、貧乏が入りこまないようにしていた。大きいミスの名が通りものになって、おとよ[#「おとよ」に傍点]さんの家と呼んでいた。
 善兵衛がおひとよしだから姉さんはあんなになってしまってと、おやそさんは言ったが、勝梅さんのお母《っか》さんよりおやそさんの方がよっぽど貧乏性だった。

 おやそさんは、あたしの祖母がなくなったとき、寐棺《ねがん》が来たら蓋《ふた》をとって見て、
「まあ結構な――どれまあ。ちょいとお初《はつ》に入れて見せて頂いて――どんな具合だかおあんばいを」
と中にはいって横に寐《ねて》て言った。
「なんて楽なことで御座《ござ》いましょう。お布団はふくふくして、なんとももうされないよい気持ちで御座います。おばあ様にあやかりまして、私も極楽|往生《おうじょう》いたしますように。」
 なまいだ、なまいだ、なまいだ、と棺から出てきても空念仏《そらねんぶつ》を言いつづけていた。
 おやそさんが、漬物桶《つけものおけ》と同居して死んだ時、十本の指に十本、手首にも結びつけていた紐《ひも》がある。その紐はみんな寐床の下から出ていた。死体を棺に入れたら床の下からずるずると幾つもの巾着《きんちゃく》が引きずられて畳を這《は》った。貸金の証文、鍵《かぎ》類、お札のいれたの、銀貨の入れたの、銅貨の入れたの、穴のあいたビタ銭のまであった。大概のものは棺の中へ一所に入れて、現金は何処《どこ》へか寄附された。



底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店
   1983(昭和58)年8月16日第1刷発行
   2000(平成12)年8月17日第6刷発行
底本の親本:「旧聞日本橋」岡倉書房
   1935(昭和10)年刊行
※「老母よりの書信」は旧仮名遣いになっていますが、ルビにつきましては、岩波文庫編集部の方針「現代仮名づかいで振り仮名を付す」に従い「いずみちょう」としました。
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2003年7月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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