い。中島座という小芝居が非常に繁昌した――それも目で見たより、家の人がいうのが耳に残っていた方がかっている。
テンコツさん森口嘉造氏はそこら一帯の大屋さんで、口利きで、対談事、訴訟にもおくれをとらぬ人、故松助演じるところの『梅雨小袖《つゆこそで》』の白木屋お駒の髪結《かみゆい》新三《しんざ》をとっちめる大屋さん、鰹《かつお》は片身もらってゆくよの型《タイプ》で、もちっとゴツクした、ガッチリした才槌頭《さいづちあたま》である。テンコツさんのいわれは知らない。一度何のことかと父に訊《き》いたら、拳固《げんこ》をかためて頭のところへもっていったようなことをしたが、私にはなんのことなのか分ったようで訳《わか》らなかった。たぶん、頭がかたい――頑迷だというのかも知れない。母にきいたら、頭の脳天《のうてん》に丁字髷《ちょんまげ》をのせていたのだともいった。
テンコツさんの住居は、中島座の通りで、露路にはいった突当りだった。露路口に総後架《そうこうか》の扉《と》のような粗末な木戸があった。入口に三間|間口《まぐち》位な猿小屋があった。大猿小猿が幾段かにつながれていて、おかみさんが忙《せわ》しなく食《たべ》ものの世話をしていた。人参やお芋を見物のやる棒のついた板の上に運んでいた。私ははじめ猿芝居かと思っていたがそうではなく、といって、見物に小銭で食物をやらせるのばかりが商業でなく、猿を買出しにくる人もあったかも知れないが、貸猿がおもなのだから、猿廻しの問屋とでもいったらよいかもしれない。
ざわざわと人の多い、至るところ細い道だった。毎年冬になると鯨《くじら》の味噌漬の樽《たる》がテンコツさんからの到来ものだった。大橋の下へ船がついたからとりにいってくれといってよこした。で、このせまい町から、ある年の冬火事をだしたおり、荷物は大橋から船へ積めと手伝いにゆく者たちはいっていた。
その時の火事は大きかった。江戸時代の残物で、日本橋区内のコブであった汚《きた》ない町が一掃されたが、哀れな焼け出されも沢山あった。一度眠った私の家が叩《たた》き起された時は、大門通り一ぱい火の子がかぶっていた。家々では大|提燈《ちょうちん》を出して店の灯を明るくした。酒屋はせわしげで、蕎麦屋《そばや》は火をおこし、おでんの屋台はさかんに湯気《ゆげ》をたてた。纏《まとい》がくる、梯子《はしご》がつづく、各
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