がいった。あたしは武士だった人たちだから刀|疵《きず》であろうと思って凄いけれど敬意をもっていたら、あの人はあんまり遊んでばかりいたのであんな顔になったのだと言ったものがあった。
「いや、怖いはずです。」
と親味の弟でさえ言った。
「私たちでさえ、見なれていてもギョッとする時がありますからな、好い気持に寝ていてふッと目を覚すと、知っていながらよくはありません。一ぱい機嫌で帰った時なんか、お世辞なんぞいってくれない方がいいと思いますよ。」
「行燈《あんどん》のそばに、立《たて》ひざをして、横むきだったら、菊五郎の庵室の清玄《せいげん》だね。」
と父でさえいった。
 末の弟は特長のない、それだけ普通の人だった。この一家は中の弟が家長になって、兄貴の方が居候《いそうろう》だった。女たちは封筒を張ったり、種々の内職をしていたが、時々男たちは殿様気分を出して威張った。三番目のあたしの妹を可愛がって、自分の家へ連れていってしまうこともあった。あたしたちは幼いお丸ちゃんによくこういって聞いた。
「あの顔こわくない?」
 名の通り円満なおまるちゃんは首を振って笑っていた。
 アンポンタンと妹のおまっちゃんは上野のお花見に、父に連れてってもらった時――もう夕方だった。多くの人が浮かれながら帰ってゆくあとを、父は子供の方は忘れたように桜を見ながらブラブラ歩いていた。二人は手をつないで後からついていったが、そろそろ暗くなりかけた時、賑やかな一団が、間は離れていたが摺《す》れちがった。鉢巻をした男の頭に肩車をして縋《すが》っている小さな女の子がいる。よく見るとおまるちゃんだった。赤いはだぬぎで、おんなじように鉢巻きをしていた。それをとりまく男女の一群は、みんな片はだぬぎで、赤や鬱金《うこん》の木綿の鉢巻きをしてはしゃいでいた。
「ああおまるちゃんだ。」
 彼女の小さい姉たちは声をかけた。
「おまるちゃん――」
 彼女は男の頭の上から答えた。
「亀《かめ》の年だあい。」
 そして、キャッキャッと悦《よろこ》んで男の頭を叩《たた》いた。叩かれているのは理屈やの輝夫だった。
「そうだ、そうだ。」
と男女は陽気に合づちをうって行きすぎてしまった。
 父はちょいと振りかえって笑いかけたが、声はかけなかった。あたしたちは、振りかえり振りかえりして、おまるちゃんが自分たちの方へこようとしなかったのをさびしがった。ひょいと方向が違ってしまったと見えて大木《たいぼく》の根をグルリと廻って見ても、そこに父の姿は見出せなかった。
 迷児《まいご》になってしまったのだった。二人はベソをかくのを隠しっこをしてウロウロしたが上野の山は桜が白くこぼれて、山下の燈があかるいほどなおさびしかった。鐘つき堂の鐘が鳴った――
 ふと、青石横町の、母方の祖母の家で、寝ざめや、寝ぎわにきいた、三ツは捨て鐘で、四つめから数えるのだときいたことから外祖母の家を思いだした。おばあさんの家へいっていたら、父がたずねて来てくれるかも知れないと気がついた。青石横町にいると、五月雨《さみだれ》の雨上りの日など抄《すく》い網をもって、三枚橋の下へ小蝦《こえび》や金魚をすくいに来たから、石段をおりれば道は知っていた。おさないはらからは、手をつないで、ぼんやりと、暗くなってからやっとその家に辿《たど》りついた。

 おまるちゃんが「亀《かめ》の年」といったのは、よく諸方で可愛がられる子で、近所の――そばや利久の前の家――酒屋で、孫娘のように大事にしてよく借《かり》に来た。お酒がすきで、亀の年という甘いお酒(瀬戸物の大きな瓶《かめ》のかたちの器にはいっていた)をのませたのでその名をよく覚えてしまって、ある時、お前は卯《う》の年、お前は巳《み》の年と年寄りが言っていたらば、
「あたしは亀の年。」
といって、それから自分の名にしてしまっていたのだった。
 この加頭一家は、十一月の酉《とり》の町には吉原土手へ店を出した。熊手の簪《かんざし》を売ったこともあったが、篠《ささ》に通したお芋を売った。がりがりの赤目芋だった。それを一家中が前の日の夕方から担ぎだして、戸板まで運びこんでゆくのだった。新智識の代言人の書生さん一家が、黒紋附きで、あるいはカンゼよりの羽織の紐《ひも》で、あるいは古新聞で畳んだ十二|煙草《タバコ》入れをもって、酉《とり》の町の際物師《きわものし》となる。いらっしゃいいらっしゃいと景気よく呼ぶのだそうだが、あたしにはどうしても勢いのいい景色が思いうかばなかった。
 後にアンポンタンが十六の時祖母が死んだが、その時、この兄弟がたてた葬式のプランが、なんにも知らない町娘のあたしをさえふきださせた。
 彼らはいった。昔の士分の格式にして、この家の生活はいくらか!
 甲論《こうろん》、乙駁《おつばく》、なかなかにまとまらない。長い長い巻紙へ書き出してきたのを見ると、あたしが馬車へ乗って白無垢《しろむく》を着る――
 まだ、そこまではまず好いとして、おさげ髪、額に黛《まゆずみ》!
 ばかばかしくなって腹が立った。江戸っ子のおやっちゃんは浴衣がすきだ――ともいえなかったが――
 そういったも無理がないと思ったのは、仕立屋で博識《ものしり》で、やはり三百の組の井坂さんが話したことだが、この加頭一家の輝夫が死んだ時――もう家の書生はしていなかった――陋巷《ろうこう》に死したのだが、例の格式で、借りものの白むくの三枚重ねを女たちはみんな着たが、肝心《かんじん》のやかましやがさきへ死んだので、細君――昔の旗本何千石かの奥方は、結びがみのまま、しかも下駄を買うのをわすれて古びた日和下駄《ひよりげた》をはいていったと――

 井坂さんは類《たぐい》まれな世話やきの親切ものだった。向う新道の、例の角のおいもやさんの後の、大丸のおあぐさんの家の塀の前に住んで小僧さんと職人の三、四人がいた。暮になると人を増していた。いつも綿を入れたり、火熨斗《ひのし》をかけている女房《おかみ》さんは、平面《ひらおもて》ではあったが目に立つ顔で、多い毛を、太い輪《わ》のおばこに結っていた。岩井松之助という、その頃の女形の役者に似ている気がした。親方井坂さんは腕の好い仕立職人だが、どうもじっとして仕事がしていられないと見え町内のことから、何からかから、成田山の講元でもあれば裁判所のことにも興味をもっていた。だから、ある時は、修験者のかける大きなつぶの数珠《じゅず》を首からかけて、みけんへ深い立皺《たてじわ》をよせて真言《しんごん》秘密、九字の咒文《じゅもん》をきっていることもある。あたしの父が、悪太郎の時分からの知りあいだ。
 仕立やの店は、その実|女房《おかみ》さんのお稽古所だったのだ。常磐津《ときわず》のおしょさん[#「おしょさん」に傍点]だった文字春《もじはる》さんの家が仕立や井坂さんになったのだ。悪太郎の父は、ませていたその頃の小若衆《こわかしゅ》、井坂の浜さんが文字春さんのところへくる夜、格子の敷居に犬の糞《ふん》をぬっておいた。浜さんが意気な姿で格子をくぐって、おしょさんの前に座ると、おや、いやな匂いだといったので、笑い出しておっかけられた――そんな不良どもが、法律の先生になったのだから、仕立や浜さんが袴《はかま》をはいて、三級選出区会議員を望んだのは尤《もっとも》な向上である。
 彼には妙な癖があった。「先生」とよぶと、ちょっとお耳を拝借と傍《そば》へいって、掌をひろげて扇がわりにして何かひそひそと囁《ささや》く。別段の用事でなくても誰にでもそうだが、ちょいと見にはいかにも腹心の者らしく見える。曾呂利新左衛門《そろりしんざえもん》を講釈から学んだのではないだろうが、その癖は母などをいやがらせた。
 そこの店にスリで有名になった仕立屋銀次がいた。そのころ、親方浜さんも大たぶさ、銀次も大たぶさだったかと、うろおぼえではあるが覚えている。銀次という職人は青い顔の、眼の横に長い、刀のような目附きの人だったと思う。祖母が言ったことがある、あの職人は、鼠小僧《ねずみこぞう》によく似ていると――鼠小僧は神田|和泉町《いずみちょう》にすんでいたが――区はちがっても和泉町は近かった――祖母はよく見て知っていたといった。引廻しの時も、前のうまやから馬が出て大通りを通ったが結城《ゆうき》の着物をきて薄化粧をしていたといった。



底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店
   1983(昭和58)年8月16日第1刷発行
   2000(平成12)年8月17日第6刷発行
底本の親本:「旧聞日本橋」岡倉書房
   1935(昭和10)年刊行
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2003年4月2日作成
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