《おれ》が、このコップをこうあげたらヒヤヒヤだ、机の此処《ここ》へ手をやったら否《ノー》だ。こういう風になったら拍手だと教える。だが、やって見るとノーノーもヒヤヒヤも拍手も入交ぜとなる、何度繰返してもおんなじなので、まあいいやということになってしまった。今の言葉ならばそれが自然だというところだったろうが――
 聴衆は表の通り一ぱいの黒山だった。解《わか》ったのか解らないのか、ともかくとてもおめでたい事という概念と、はちきれるほど一ぱいなお祭り気分で、ノーノー、ヒヤヒヤ、拍手|喝采《かっさい》、何もかもメチャクチャに景気よく、弁士を胴上げにして家まで送って持って来た。そのあとが馬場勝《ばばかつ》一派の長唄《ながうた》――馬場は浅草橋の橋手前、其処《そこ》に住む杵屋《きねや》勝三郎といった長唄三味線の名人、夜一夜《よひとよ》唄うにまかせ、狂うにまかせ、市中は明るい不眠症にかかって、そこら中で花瓦斯《はなガス》が燃え酒樽が空《あ》いた。雪をこねかえした泥濘《ぬかるみ》に、お酒にお腹《なか》の袋を破った死人がゴロゴロ転がった。
 多分戸を閉めないで寝た家が多かったろう。



底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店
   1983(昭和58)年8月16日第1刷発行
   2000(平成12)年8月17日第6刷発行
底本の親本:「旧聞日本橋」岡倉書房
   1935(昭和10)年刊行
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2003年4月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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