ごっこで恐縮していた人で、このおとなしい先生を子供たちまでが、校長と一緒になって気持ちでさいなんだ。士族上りの先生は弱げで、細い鼻のさきが、いつも冷たそうに赤ばんで、水鼻がうるんでいた。色白の女のように色の白い人で、お能役者のような摺足《すりあし》で歩いて、小倉《こくら》の袴《はかま》を引きずり、さほど年もとっていないのに背中を丸くしていた。よほど困窮していたと見えて、初めての日の中食《ちゅうじき》に、竹の皮へ包んできた握飯《おにぎり》と梅干をつまんで食べたので侮ってしまったのだった。千住《せんじゅ》から歩いて来るので、朝早くから出るのに、雨が降ると草鞋《わらじ》を穿《は》いていた。秋山先生の弟子煩悩は大変なもので、ある折、市の聯合の大運動会が、桜の盛りの上野公園で催された。小さいながら代用学校と認められて参加を許されたのだから、先生は宇頂天《うちょうてん》なほど悦んで、一層空地の鬼ごっこや旗とりが奨励《しょうれい》された。その日は区内の細かい学校が一かたまりになって、大きな公立小学校に対抗するので、源泉学校と染めた旗も出来上った。女の子は赤い緒《お》の草履《ぞうり》、男の子は白い緒の草履、お弁当はみんな揃えてお寿司《すし》の折詰を学校からあつらえ、お菓子や飲料《のみもの》のことまで世話人を定《き》めたところが、あいにくその日は朝から曇って、八時ごろには地雨《じあめ》になってしまった。無論子供たちも落胆して泣いたが、附添いや何かに慰められて帰ろうとした。すると先生は帰ってはいけないと叫び出した。といって雨が降りやんだからとて、その日運動会が催うされるはずはないし、もう何処《どこ》の学校でも子供は帰したからと、誰がいっても先生はきかなかった。それでも、一人二人と帰ってしまって、教場はガランとなる、其処此処《そこここ》に赤や白の鼻緒の草履の山があって、おすしをもっていったものも、食べたものもあるので残りすくなになって、残った手伝いが跡片附けをはじめても、先生は竹格子の窓に両手で顔をはさんだまま空を見詰めていた。さようならをしにゆくと、急に先生はたまらなくなったように涙をこぼしだして激しいすすりなきになった。
 また、こんな事もあった。丁字髷《ちょんまげ》に結《い》ったお侍《さむらい》と男の子のむきあっている絵の読本の時間だった。なんでも大変|吝嗇《りんしょく》な武士で金銭ばかり数えている者で人に嘲《あざけ》られていたが、ある事変が起って、人を助けなければならない時、日頃愛する金銭を、すこしもかえりみなかったので、前に罵《ののし》った者どもも讃《ほ》めたというところで質問した。割合金銭のことに興味を持つ――店の買物の代価を、客から受取って銭箱へ入れることや、売上げの勘定に馴《な》れている子たちも多かったので、話はよくきいていたが、なぜ褒《ほ》めたかという質問には答えが満足でなかった。先生はジリジリして褒めたくってたまらないのが褒められないので機嫌がわるくなりかかっていた。先生の底の方に光る眼が私の上にギョロリときたが、暫《しばら》くたゆたってから、
「ヤッちゃん。」
と指さした。子供は率直だ、あたしの家ではあまり金銭《おかね》の顔を見せない、あたしに金銭の貴さを知らせるには無理だった。だからこの場合、あたしはその武士がお金をならべて楽しむのは、あたしが姐様《あねさま》を飾るのとおなじ位にしか見えなかった。だから皆が考えかねているのが不思議でかえって自分の考えが間違ってるのかも知れないとさえおそれた。それでも言った、
「ふだんはお金が好きだが、人を助けるためには……」
 そこだ! と先生は飛上って卓《つくえ》を打った。堪えかねるほど待兼《まちか》ねた答を、予期しないアンポンタンから得たので、先生の褒めかたは気狂いじみてたほどだった。
「傑《えら》い、傑い。その武士も傑いが、ヤッちゃんも負《まけ》ずに傑いぞ。小錦関《こにしきぜき》だ、やがて日《ひ》の下《した》開山《かいさん》の小錦関だ。」
 小錦という力士は後に横綱になったが、まだそうならないうち、新進気鋭で売出しかけてでもいたのであろう。そういって褒《ほ》めあげた末に、人間は大将を望んでやっと兵卒位にしか出世をしないものだという事や、恐らく○○先生も世が世であれば大名を志望《こころざし》てお出《いで》だったであろうがなぞと、呆《あき》れ顔に佇《たたず》んでいた、例の助教師の方へ嫌味をふりかけて、そのくせ人の好い笑顔をむけたりするのだった。

 この教室の窓の格子のところへ、夏になるとお弁当をみんなが並べておいた。運動場へは台所口から出るのだった。台所には、みんなが持ってきてある小さい土瓶《どびん》が、せとものやのように幾段にも釘《くぎ》にかけてずらりと並んでいた。お午《ひる》になると
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