もそこは青柳という会席料理《おちゃや》だったのだそうで、炭勘はその後《うしろ》から前へ進入したのだ。お茶屋があったからというわけではなかろうが、その隣りに阪東三弥吉という女の踊りの師匠がいた。その側《そば》に、私の父の俥《くるま》をうけもって、他《ほか》に曳子《ひきこ》を大勢おいていた俥宿《くるまやど》があった。
 なんで細かく此処《ここ》まで書いたかというに、前にも言ったように、私の家のならびは、窓ひとつもない、塀と土蔵裏と、荷蔵《にぐら》ばかりつづいているその向う側であるからで、俥宿までの町並は二間半たらずだが、そこからぐっと倍も広がっている。それが、何故《なぜ》かというと、三誠社という馬車《うまぐるま》を扱う大きな運送店があって、その前身が、伝馬町の大牢の、咎人《とがにん》の引廻しの馬舎《うまや》だったというのだ。町巾《まちはば》が其処《そこ》だけ広がっているのが妙に嫌な気持ちにさせる。俥宿と馬舎との間の地処にかこいをして草を植え、植木棚をつくり、小さな祠《ほこら》を祭って、毎朝表通りの店から散歩にくる老旦那《ろうだんな》もあった。
 アンポンタンが三ツか四ツの時、額《ひたい》の
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