馬町大牢御用の馬屋が向側小伝馬町側にあった。この道筋だけが五町通して、本町石町から緑河岸《みどりがし》まで両側の大通りと平行していた。
面白くもない場所吟味はやめよう。以下、私の記憶のままで、年月など、幾分前後したりするかも知れないが――
しかし、アンポンタンの生活がはじまったのも、かなり成長してからの眼界も、結局この街の周囲だけにしか過ぎない。で、最も多く出てくる街の基点に大丸《だいまる》という名詞がある。これは丁度|現今《いま》三越呉服店を指さすように、その当時の日本橋文化、繁昌地《はんじょうち》中心点であったからでもあるが、通油町の向う側の角、大門通りを仲にはさんで四ツ辻に、毅然《きぜん》と聳《そび》えていた大土蔵造りの有名な呉服店だった。ある時、大伝馬町四丁目大丸呉服店所在地の地名が、通旅籠町と改名されたおり大丸に長年勤めていた忠実な権助《ごんすけ》が、主家の大事と町札を書直して罪せられたという、大騒動があったというほどその店は、町のシンボルになっていた。
問屋町の裏側はしもたやで、というより殆《ほとん》ど塀《へい》と奥蔵《おくぐら》のつづき、ところどころ各家の非常口の、小さい出入口がある。女たちがそっと外出《そとで》をする時とか、内密《ないしょ》の人の訪れるところとなっている。だからとても淋《さび》しい。私の家は右隣りが糸問屋の近与の奥蔵、左側は通りぬけの露路で、背中は庭の塀の外に井戸があり、露路を背にした大門通り向きの幾軒かの家の、雇人たちのかなり広くとった共同便所があり、それを越して表通りの足袋問屋と裏合せになっていた。左横の大門通り側には四軒の金物問屋――店は細かいが問屋である、この辺は、鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春と、元禄《げんろく》の昔|其角《きかく》がよんだ句にもある、金物問屋が角並《かどなみ》にある、大門通りのめぬきの場処である――その他に、利久という蕎麦屋《そばや》、べっこう屋の二軒が変った商売で、その家の角にほんとに小さな店の、ごく繁昌する、近所で重宝《ちょうほう》な荒物屋があった。小さな店にあふれるほど品が積んであった。
煩《うる》さくはあるが、もすこし近所の具合を言っておきたい。荒物屋の向っ角――あたしの家の筋向いに横っぱらを見せている、三立社という運送店の店蔵は、元禄四年の地震にも残った蔵だときいていた。左横に翼がついてい
前へ
次へ
全10ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング