松)と共に、江戸の小説歌曲にゆかりの深い名木だつた。(書落したが、この淺草倉のほかに、濱町矢の倉、鐵砲洲新倉がある)本所横網のお竹藏は淺草倉に向ひあつてゐて、お竹藏といつても米倉なのだ。これらの太倉《ふとくら》は、橋よりも古い以前に建てられ、ことにこの淺草倉は全國の貢米がはいつてくるのと、庶士の俸祿を渡すところなので、江戸の米の價はといふより、諸國の米の價が、この太倉の虚しいか盈てゐるかによつて高下したのだ。お藏前の札差といへば、私たちは豪富な町人で通人《つうじん》で、はじめから言ふ目の出た暮しをしてゐたものと、頭から特別階級のやうに思ひこんでゐたが、はじめはさうではなかつたのだ。しかし、寛永年間、札差がはじまつて以來、天下の商人がおよそ羨んだに違ひのないことは、
――家産殷富を占め、勢甚矜豪を持す、當時俗間富豪をさして、札差の如しといふ、以て其盛滿を知るに足る――
と書かれてあるのでも知れるが、札差は一人一軒だけが富有なのではなく、百一人店を並べてみな致富なのだから、勢ひは他の一人立ちの富者を壓したのであらう。この人々の金の捨てどころが深川の巽巳《たつみ》であり、吉原であり、兩國橋畔なのであつたから、まけじ魂の金持たちが爭ひ集つて來て遊樂に散じた金は、世智《せち》がらい當今ではちと思ひおよばない高であつたらうと考へられる。
しかし、札差はもとから富んでゐたのかといへばさうでない。ぽんぽち米《まい》を食つてゐた痩侍《やせざむらひ》の膏を吸つたのだ。米價を釣りあげて細民を餓ゑさせた餘徳だ。
「大倉の邊に、札差を業ひする豪戸あり、札差は他に比類なき一家業を營むもの」と記されてあるが、この豪戸は、たちまちにして豪戸になつたのだ。他に比類なき一商業とは、計算利益にうとい武士どもがあつたればこそ出來上つた商賣なのだ。
お藏前の通りには、米倉に向つて向側に、手形書替所が二ヶ所あつて、役所には書替奉行といふものが各一人づつあり、ほかに手代が居た。お切米《きりまい》、お扶持米《ふちまい》、御役料《おやくれう》の手形書替へをする。札差の前身は、その役所近くに食物や、お茶を賣つてゐた葭簾《よしず》ばりの茶店だつたのだ。客を待たしておいて、書替に役所へ出入りしたり、大倉へ米をとりにいつたりしてゐるうちに、その道に明かになり、狡いこともうまくなつたのだ。剩つた米を安くかつて米店をはじめたり、貧乏旗本や御家人《ごけにん》に金を融通して、扶持米をとりあげたり、高利をとつたりしたのだ。思ふに、これはとてもぼろい商賣だつたのに違ひない。算當知らずの二本差と、袖の下のきく商人のやうな役人たちが對手だから、面白いやうに儲かつたのであらう。寛永ごろには立派な者になつたから、この利益の多い職業の人數をかぎることを思ひついた。いざこざはさぞあつたであらうが、はじめ同商業は九十六人といふことに定まり後《のち》に百一人になつた。
――扶持米とは、一人一日の食料をもとにして、米を以て毎月給與する月給で、徳川幕府の定めは、一人一箇月の分が、玄米一斗五升。切米とは、扶持米を數囘に分けてか、又は金錢に取《と》り替《か》へて渡すことをいふので、手形の書替とは、切米券《きりまいけん》を、請取にしてもらふことで、請取手形が渡ると、受取人の名を紙に書いて割竹に挾み、大倉役所の藁苞に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]込んでくるのである。さうして、御家人、又は旗本の代理人となつて米を受取り、米を家へ送りとどけたり、殘りを金に代へてやる面倒を見る、それが札差の名の基になつてゐる。
札差の手數料は祿高百俵について金壹分、百俵以下は一分を限度として談合のことになつてゐたが、それは表面だけのことで、米相場の高低、秤の具合など、赤ん坊對手の商業のやうなものであつたらう。幕末には幕臣の多くが遊墮《いうだ》になつて、狡くなり、中には札差を脅迫したり威したりしたでもあらうが、二百年もかかつて絞りあげた富は莫大な高である。しかも大岡越前守が、御米渡しも夏冬の二季と定めてからは、札差の利徳はことに大きくなつたのだ。貧乏旗本や御家人が、半年分の米を積んでおける餘裕のある筈はないから、みすみす半期の飯米《はんまい》が消えてしまはうとも、金に代へなければならない。それよりも、その殆が前期の利子に、元金の借に差引かれてしまつたのだ。私は子供のころ小旗本の老人に、幕末時代のそんな愚痴をきかしてもらつたことを覺えてゐる。御歴々でもさうだといつた。一年《いちねん》の取前高《とりまへだか》はみんな札差がとつてしまつて、諸拂にと少しばかりわたされるので困つてねだりにゆくといつた案配《あんばい》で、どつちが出入りなのだかわからなくなつてしまつて、お金も米も、先方の帳面によるのだから、何代前の主人が借たのかさへ分明しなかつたともいつた。
江戸の金融は、そのほかに幕府や諸藩の御金御用達があつた。それらの少數の富豪たちの息のかからない藝人、粹人はなかつたといつても間違ひはなからう。畢竟川開きもそれらの人たちからはじまつたと見てもよいかと思ふ。
これだけでもあらかたの、徳川期隅田川筋の物資集散が知れるかと思ふ。大川橋《おほかはばし》といふ名でかかつた吾妻橋上流の兩岸は、あまり知れ亙りすぎてゐるほどの東名所《あづまめいしよ》で、いはゆる風流の淵叢となつてゐた。
さて、花火のあがる兩國橋は、淺草見附升形を出ると、廣小路には見世物小屋、小屋掛芝居、並び床(理髮)並び茶や、このところ船宿料亭多しと名所圖繪には書いてある。荻生徂徠《おぎふそらい》が、
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兩國橋邊[#「兩國橋邊」は底本では「雨國橋邊」]動櫂歌 江風涼風水微波
怪來岸上人聲寂 恰是彩舟宮女過
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と詠じたのは、舟遊びをほめあげるために陸には人が居ないやうにいつてゐるし、
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千人が手を欄干やはしすずみ
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の其角は、橋の上の方の贔屓だ。
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納凉は五月廿八日に始り、八月廿八日に終る。常に賑はしといへども、就中、夏月の間は尤も盛なり。見世物所せき斗りにして、其招牒の幟は風に篇翻と飄り兩岸の厦樓高閣は大江に臨み、茶亭の床几は水邊に立て連ね、燈の光は耿々として水に映ず。樓船篇舟所せくもやひつれ、一時に水面を覆ひかくして、恰も陸地に異ならず絃歌皷吹は耳やかましく、實に大江戸の盛事なり、俗に川開きといふ即是なり(名所圖繪)
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柳橋藝妓は巽巳《たつみ》の羽織――富が岡八幡|門前仲町《もんぜんなかちやう》の藝妓――が止められてから柳橋へ移つたのだといふが、本所一つ目お旅の辨天にも岡場所の藝妓たちが居た。かうした人氣とりの世界に、きりはなせないのは角力場で、はじめは深川八幡内で興行してゐたが、寛政三年になつてから囘向院が本場所となつた。したがつて、その附近の町に力士部屋があつたから、場處がはじまると兩國近所は町中《まちぢゆう》が狂氣のやうに興奮してしまつたのだ。地元は八ヶ町ととなへて、特別觀覽の木札が渡つて來てゐたから、力瘤の入れ方も一層だつたのであらうが、川風に吹きさらされ、大川に鳴り響き、江戸中の曉の夢を破る櫓太皷が、とても地元の者の元氣を皷舞したのだ。一たいに色彩や、音響や、光りに缺けてゐた時代に、櫓太皷の破れるやうな強い音とか、花火の爆發とか、暗い空に開く火傘――といつたものは、光りと音響と色彩に麻痺しつくした近代人の、考へてやれないほど特種の魅力だつたに違ひない。
だが、江戸の都市美には田園風景を多分に抱へこんでゐた。いま、江戸憧憬者が惜がるのは、都の中にあつた田園水郷の風趣が、都會的に洗練されて小ぎたならしくないのと、それに織りまざつた豪奢な風流逸事を、現今の生活では、たとへ金があつてやつてみても氣分がそれに伴ひきれない怨みを、美しい追憶としてゐるやうだ。私も震災後の雜ばくたる下町へゆくと、生れ故郷ではあるけれど見たくない思ひがする。それはあまり見馴れすぎてゐた舊文明の殼《から》が眼のうらにありすぎるからだ。兩國橋畔の變りかたは實に汚ならしい。隅田川筋一帶がさうではあるが、他所《ほか》は近代的美を徐々に造りつつあるとき、兩國橋附近も直《ぢき》にさうなるであらう。
何處やら物悲しく感傷的にさへさせた花火――花火がすんだ暗い川を、遠くに流《なが》れてゆく三味線の音をきき、船の櫓のきしみを耳にしながら、話も盡きて、無言で漕がれてゆくのはさびしかつた。鐵橋や、鐵筋コンクリートの高樓や、高架線や、モーターボートや、種々な近代的都會美を輝やかせる花火の方が、どんなに花火らしい花火だか知れない。
草原などで、ポーン、ポーンと、青い玉や赤い玉の出るお粗末な花火を上げるのも好きだし、門の凉台であげる線香花火も可愛いと思ふが、兩國の川開きだけは立派な上にも豪壯なのが好い。近ごろでは仕掛け花火を主にするやうだが、河畔に集る人にはそれでよいが、全市を飾る、兩國の川開きなら、何處のビルヂングの窓からでも眺められる、遠景をおもんばかつた、とても雄大な火傘が、つるべ打ちにうちあげられて、空を飾るのが近代都市美の上からいつても本當だと思ふ。そして時間は短かい方がいい。花火もお酒を飮みながら見てゐるとしても、飮みかたも違つて來てはゐはしまいか。麥酒を一ぱいグツと飮むと、パンパン、パンパンパンと空で裂ける音は景氣がよからう。胸がスーツとするだらう。おそらく元祿時代の昔の人は、そんな氣持だつたのだと思ふ。ハツと手に汗を握るくらゐ、氣の弱いものは動悸がするほど目覺しくやつたら、川開きの人氣は兩國の川の上ばかりではあるまい。柳橋三業組合にまかせておかないで、川開き花火を全市のものにすることを、高いところに窓をもつレストランやカフエや、空間の多いビルヂング經營者にもすすめる。高架線のプラツトホームや、省線の窓からの見物なんかも素的な近代風景ではないか。
[#地から2字上げ](「改造」昭和九年七月)
底本:「桃」中央公論社
1939(昭和14)年2月10日発行
初出:「改造」
1934(昭和9)年7月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※「回向院」と「囘向院」の混在は底本の通りです。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年1月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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