花火と大川端
長谷川時雨
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)國境《くにざかひ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)花火|間《ま》も
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]
−−
花火といふ遊びは、金を飛散させてしまふところに多分の快味があるのだから、經濟の豐なほど豪宕壯觀なわけだ。私といふ子供がはじめて記憶した兩國川開きの花火は、明治二十年位のことだから、廣告花火もあつたではあらうが、資本力の充實した今日から見れば、三業組合――花柳界の支出費だけで、大仕掛のものはすくなかつた。
江戸時代の川開きとは、納凉船が集つてくる、五月廿八日から八月廿八日までをいつたものだといふが、納凉舟から打上げた花火の競ひが、一夕、日をさだめて盛んに催されるやうになつたものと思へる。客寄せに岸の割烹店が行なつたよりは、富む者たちが打上げさせた方が、金力が豐だつたことはいふまでもない。
[#ここから2字下げ]
一兩が花火|間《ま》もなき光かな
この人數船なればこそ凉かな
[#ここで字下げ終わり]
と俳人寶井其角は元祿四年にその盛況をよみ殘しておいてくれてゐる。その當時の物價と金の價格を引きくらべたら、一兩はいまのいくらになるか知らないが、其角ほどの人がさう讀んだのは、一兩がかなり高價であつたと見ることが出來る。
江東一帶は工業地區となり、隅田川は機械油を流しうかべる現今こそ、金の集散は著しいであらうが、昔の大川筋に、物資の力と花火の發達なぞといふのはをかしいやうだが、武藏と下總の國境《くにざかひ》を、渡し舟が人を運んだ人煙稀薄《じんゑんきはく》な大昔《おほむかし》はとにかくとして、あれだけの橋が幾筋も出來上るには、かけなければならない交通と、物資のふくらみとがあつたわけだ。大川が大都會を貫く水路になつて、江戸の文明と密接な關係をもつてくると、有名な淺草海苔も、もうその時分から産物ではない。
隅田川本流大川に橋のかかつたのは、萬治三年の兩國橋――最初は大橋、または二洲橋――と名附けられ、對岸の深川、本所は(もとの名、永代島、牛島)とうに御府内に抱へこまれてゐて、橋こそなかつたが、芦や葭《よし》の生《は》へた洲《す》ばかりだと思ふと大違ひの賑はしいところであつたのだ。
橋のかかつた原因は、三年前の、明暦三年正月、本郷丸山からの大火事に、淺草|見附《みつけ》の廣場に家財道具を持出したものが積み重なり、逃げ道をふさいで、十萬七千人といふおびただしい燒死者があつたから、時の政府が急に造橋を思立つたのだつた。次の大火事に構へるところに、いかに江戸に大火がつきものだつたかといふことがわかり、しかもその翌年正月、駒込吉祥寺に大火があり、年をつづけて千代田城も燒亡してゐる。この年の大火難と、大正拾貳年の關東大震災とは、橋をへだて世をへだてて、兩岸に偶然なおなじ出來ごとがあつたのだつた。震災のは本所横網に紀念堂が祀られ、明暦大火のは、諸宗山無縁寺回向院《しよしふざんむえんじゑこうゐん》が建立された。その時の燒死者は舟で運んで、六十間四方に掘り埋めたといふ。
この大火の町《まち》、深川にも、本所にも幕府《ばくふ》の倉庫があり、商庫《しようこ》もあつたことは、深川の河岸藏《かしぐら》には、米十萬七千俵、其他に、豆、麥、酒、油など莫大だつたと、伊勢貞丈《いせていじやう》の隨筆には記載されてゐるといふことである。
橋のかからない前の深川浦《ふかがはうら》――蛤町邊《はまぐりちやうへん》をいふ――は、天正ごろから魚市場があり、造船匠《ふなだくみ》も多く居たといひ、八幡宮は寛永年間には一の鳥居よりうち三四町の間、兩側茶肆、酒肉店軒をならべ、木場《きば》は元祿十年に現在のところへ移つたが、其前《そのまへ》は佐賀町《さがちやう》が材木河岸で、お船藏は新大橋――兩國橋のつぎにかかつた――附近、幕府の軍艦安宅丸は寛永八年に造られて、ここの藏におさまつてゐたのだ。
橋がかかつてからの深川は、府内第一の豪華な歌舞酒地とされた。富岡門前の繁華は、淺草新吉原をも凌駕したといふ。八幡鐘《はちまんがね》の後朝《きぬぎぬ》は、江戸情史にあんまり有名すぎる位だ。洲崎は今の遊廓が明治になつて本郷根津《ほんごうねづ》から移つてきてから賑はしくなつたのではなく、
[#ここから1字下げ]
洲崎茶屋十五六ばかりなるみめかたちすぐれたる女を抱へおき、酌をとらせ、小唄をうたはせ、三味線引き、皷を打て、後はいざ踊らんとて、當世流行伊勢おんどう手拍子を合せて踊り、風流なること三谷の遊女(新吉原)も爪をくはへちりをひねる。
[#ここで字下げ終わり]
と「紫《むらさき》の一本《ひともと》」にはあり、天明ごろの「蜘蛛の絲卷」には、
[#ここから1字下げ]
昔は江戸に飯を賣る店はなかりしを、天和の頃始めて淺草並木町に奈良茶飯《ならちやめし》の店ありしを、諸人《しよにん》珍らしとてわざわざゆきしよし、近古《きんこ》のさうしに見えたり。しかるに都下《とか》繁昌につれて、追々食店多くなりし中に、明和のころ深川洲崎の料理茶屋は、升屋祝阿彌《ますやしゆくあみ》といふ京都風に傚《なら》ひたるべし、此者夫婦の機を見る才あり、しかも事好、廣座敷、二の間《ま》、三の間《ま》、小座敷、小亭、又は數奇屋|鞠場《まりば》まであり、中庭《なかには》推して知るべし。雲洲《うんしゆう》の隱居|南海殿《なんかいどの》、次男雲川殿、しばしば遊びたまへり。此處殿は、其ころ大名の通人《つうじん》なり。諸家の留守居、府下の富高の振舞、みな升屋定席、その繁昌比すべきなし。
[#ここで字下げ終わり]
といつてゐる。洲崎は春は潮干狩、冬の月には千鳥と風流がられた。
江戸人は風流心のないといふことを恥辱としたが、風流といふ字は風と流れだ。隅田川筋を唯一の極樂地とし、郊外散歩と遊蕩と社交をかねた人達に、なんとぴつたりした字であらう。
幕末《ばくまつ》、天保のころになると、江戸繁昌記深川のくだりには、
[#ここから2字下げ]
大川横川、名所小航の便、施舫客船日夜織る如し
[#ここで字下げ終わり]
とある。巽巳藝妓《たつみげいしや》の侠《きやん》な名や、戲作者|爲永春水《ためながしゆんすゐ》述るところの「梅暦《うめごよみ》」の色男丹治郎などは、つい先頃までの若者を羨ましがらせた代物《しろもの》だ。その狹斜が生んだ、江戸末期的代表デカタンが丹治郎だ。
江戸の大火は、明暦後《めいれきご》も度々あつたのに、どうしたことか兩國橋がとりはらはれたことがある。それは橋が出來てから廿二年後のことだつた。しかし、また直に再營された。
芭蕉が、
[#ここから2字下げ]
名月や門へさしくる潮がしら
[#ここで字下げ終わり]
と吟じ、深川に住つてゐたのは元祿のころだつた。三派《みつまた》に新大橋がかかつたとき
[#ここから2字下げ]
ありがたやいただいてふむ橋の霜
[#ここで字下げ終わり]
の句がある。この三派《みつまた》の片岸《かたぎし》、濱町――大川の浦には、五六十年後の寶暦十年には、國學者|縣居《あがたゐ》の翁《おきな》賀茂眞淵《かものまぶち》が居た。
[#ここから2字下げ]
寶暦十年の秋、濱町といふ所へ家をうつして、庭を野邊、又は畑につくりて、所もいささかかたへなれば、名を縣居《あがたゐ》といひて住みそめける。九月十三夜に月めでんとて、したしき人々集ひて歌よみけるついでによめる
[#ここから3字下げ]
こほろぎの鳴やあがたの我宿に月かげ清しとふ人もかな
縣居のちふの露はらかきわけて月見に成つる都人かな
野わきしてあがたの宿はあれにけり月見にこよと誰に告まし
[#ここで字下げ終わり]
本居宣長、橘千蔭、平春海もこの縣居へ訪れもしたであらう。向島には文人墨客の居住のあともと思ひもするが、大川端の明治座のさきに、名高き文章の博士が住んでゐたことを、土地の人とても多くは知るまい。眞淵は田安家の招きによつて江戸へ下つたのだ。三派《みつまた》はいまの中洲《なかず》のあたりの名で、月の名所になつてゐる。別れの淵《ふち》といふ名は、海《うみ》の潮《しほ》と川水《かはみづ》の相逢ふ場所からの名で、古くから遊女歌舞伎たち、ここに船をうかべて宴を催し、「江戸雀」には、納凉の地といひ、舟遊びの船に、波のつづみ、風のささら(びん簓を言ひかけてか)芦の葉の笛吹きならしとある。太宰春臺は、
[#ここから3字下げ]
風靜叉江不起波 輕舟汎々醉過
天遊只在人間外 長嘯高吟雜掉歌
[#ここで字下げ終わり]
と賞してゐるが、傾城高尾が舟中で仙臺樣になぶり斬りにされたつるし斬りの傳説もこの三派《みつまた》だ。
萬治元年、ここにあつた、本ぐわんじ御堂は築地濱に移轉したとあるから、前年の大火事にもその年の正月の大火にも燒失したであらうが、參詣人は多《おほ》かつたことと思はれる。
新大橋の日本橋區|側《がは》の方をいつてみると、人形町通、および大門通《おほもんどほ》りの舊吉原(元和三年に商賣はじめ)と歌舞伎芝居の勢力を見逃すことも出來ず、魚市場、金座、大商賣、本丸も控えてゐる。ここの吉原も大火に燒けて淺草へ移つたのだ。芝居が淺草へ移つたのはずつと後のことだ。
流《なが》れにそつて京橋區内にはいると、靈岸島|湊町《みなとちやう》に御船手番所があり、新川《しんかは》三十間堀には酒醤油の問屋と銀座があり、木挽町にも正保元年から山村座がある。萬治三年には森田座が出來、見世物が賑はつてゐたといふことで、此處の芝居も、日本橋葺屋町堺町のと同時に淺草山の宿へ(これも隅田川流岸)移つたが、それは天保になつてから、例の水野越前の勤儉の時代、御趣旨のときである。芝口《しばぐち》は品川濱につづいて驛路の賑はつたことはまをすまでもなからう。
淺草と本所とへ、大川を逆流させると、花火とは誠に趣のちがつたものとなるが、向柳原の町會所のことと、藏前の札差のことを並べなければ、大川のもつ富の半分を書き落してしまふことになる。向柳原は淺草見附けのすぐそばで、町會所《まちのくわいしよ》は寛政三年に創立されたのだから、今まで書いてきたものよりはずつと新しいが、松平越中守守信が市中町法を改正して、七分積金及市中窮民救恤を取扱つたところで、籾や、金や、抵當の地所を持ち、後に明治になつてから、道路、橋、及び瓦斯局や養育院創立の資金を支出した資源だといふ。吉田博士の「地名辭書」はこの町會所と基金は、都市自治の故法を見る所以の者で、都人の當に永記すべきものだと述べてゐる。
會所の規定は、幕府より一萬兩づつ兩度の差加金を得て、會所の基本元資にし、勘定所用達十人に委託して貸付け、その利子で吏員、用達商人、年番肝入り、名主の手當を給し一ヶ年の町費額を定め、前五ヶ年平均町費を差引き、其減額の一分は町内臨時の入費、二分は地主の増收、七分を積立金とし、明治初年、拜領地、拜借地返上のとき會へ抵當になつてゐた地所を下付されたので、千七百五ヶ所の地所をもつてゐたが、八年にはみんな賣却してしまつた。會所の金穀蓄積は、増大したをりには籾四十餘萬石、金は六七十萬兩あつたといふことだ。
鳥越《とりごへ》の新堀川に天文臺のあつたといふ古跡も私たちは知らなかつた。
幕府の米倉は、藏前《くらまへ》須賀橋から厩橋まで建つづき、大川に添つて、南北三百二十間、東北百三十間面積三萬六千六百餘歩と記されてゐる。八つの渠があつて、船の出入りを便にした。この渠は今でも知つてゐる人が多くあるであらう、黒い柵があつて水門が一つづつあつた。鬱蒼蟠居《うつさうばんきよ》の古木とある首尾の松は、清元「梅の春」に首尾《しゆび》の松《まつ》が枝《え》竹町のとうたはれてゐるが、この歌詞はたつた一つ例にあげただけで、首尾の松は下谷根岸の時雨の松(お行《ぎやう》の
次へ
全2ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング