、ある茶屋の小座敷の腰ばりに彼女の假名書きのあるのが有名だつた。妹のおいろさんも姉さんよりすこし小柄でも、すつとして背も高く、そのころ七十には見えない美人だつた。深川の奧の方で、荻野八重桐《おぎのやへぎり》といつて踊の師匠をしてゐた。
先代清元延壽太夫の細君名人お葉が、築地からどことかまでの船の中で作曲したのを、すぐに唄つたのが誰だとか、いはゆる粹《すゐ》とかいきとか、風流の道は、大川に流れてゐたが、震災ですべて過去となつてしまつた。兩國から横網にかけて、夏になると出來る水泳練習所もなくなり、お臺場まで遠泳する赤、白、黒の帽子と、ハイヨーといふ掛聲もきこえなくなつた。
私は、この間相生橋にたつた時、洲崎の辨天樣の屋根を見當はづれに遠く探してゐた。すぐ前に沖があつて、上總標《かずさみほ》などのみほつくしがたつてゐたのに、そんなものもなく埋たて地が連なり、潮にのつて、シユツ/\と漕ぎたててくる八丁櫓の押送り船や白帆のかかつた大きな船など見ることも出來ない。石河島と越中島の間――以前は、海と大河との境であつたらうと思ふ邊に、蘆の洲があつて、無縁佛に手向けた菩塔婆が眞新しかつたが、そんなも
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