イミテーシヨンだ。むしろ、もつとモダン化したものに、薄つぺらでも今日の本當の姿をみとめる。
夕汐があげてきた時、向島の寮からぶらりと出て、言問《こととひ》の渡しを待つ間に、渡船の出た向岸の竹屋のあたりから、待乳《まつち》山にかかる夕陽の薄れに、淺草寺の五重の塔もながめ、富士もながめ、吉原の灯もおもつた人々は、水にゆられてゆく大川との親しみを、日に一度は川を渡らなければといふふうに、多分に持つてゐたのだ。
舟の中といへば、松《まつ》の門《と》三艸子《みさこ》といふ歌人が、本所松井町の藝者になつてゐた時分、水戸の天狗黨の人々に、船の中で白刀で圍まれた話は、もう傳説になつて作り話化してきた。三艸子は日本橋茅場町の井上文雄といふ國學者の妾となつて、豐かでない臺所仕事をしながら學んだ女だつた。そこにゐる時分は黄八丈の着附できりりとしてゐたといふが、人情本にのこる小三金五郎で有名な、額《がく》の小三の名をとつて、小川《をがは》小三といふ藝名で出た位だから、侠《きやん》だつたに違ひない。明治四十年ごろ八十からになつてゐたが、足腰がきかなくても艶々した美女だつた。能書で新橋の藝者に多くの門人をもち、ある茶屋の小座敷の腰ばりに彼女の假名書きのあるのが有名だつた。妹のおいろさんも姉さんよりすこし小柄でも、すつとして背も高く、そのころ七十には見えない美人だつた。深川の奧の方で、荻野八重桐《おぎのやへぎり》といつて踊の師匠をしてゐた。
先代清元延壽太夫の細君名人お葉が、築地からどことかまでの船の中で作曲したのを、すぐに唄つたのが誰だとか、いはゆる粹《すゐ》とかいきとか、風流の道は、大川に流れてゐたが、震災ですべて過去となつてしまつた。兩國から横網にかけて、夏になると出來る水泳練習所もなくなり、お臺場まで遠泳する赤、白、黒の帽子と、ハイヨーといふ掛聲もきこえなくなつた。
私は、この間相生橋にたつた時、洲崎の辨天樣の屋根を見當はづれに遠く探してゐた。すぐ前に沖があつて、上總標《かずさみほ》などのみほつくしがたつてゐたのに、そんなものもなく埋たて地が連なり、潮にのつて、シユツ/\と漕ぎたててくる八丁櫓の押送り船や白帆のかかつた大きな船など見ることも出來ない。石河島と越中島の間――以前は、海と大河との境であつたらうと思ふ邊に、蘆の洲があつて、無縁佛に手向けた菩塔婆が眞新しかつたが、そんなも
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング