ひと》でも、とかく耳は留守のことが多い。生きてゐない。
男の耳はかくされる事がなくて續いて來たせゐか生々としてゐる。それが、どんな老爺《おぢい》さんでも、大きすぎても、厚つべつたくても、顏とおなじ調子に呼吸をしてゐる。まして若い男のは生々と動き働きかける。
耳が動くといふと猫のやうだと、若い少女《むすめ》は笑つてしまふかもしれなが[#「しれなが」はママ]、鬢でかくして來たくせがついて、とかく女の耳は愚圖《のろま》つたらしい。大切なところであつて、その耳朶は美容にも關係するのに、晩には卷いて寢るリボン一本よりもおろそかにされはしないだらうか。
男でも女でも耳朶が赤く匂つて透いて見える時は、その人の容貌《きりやう》よりも、美しく目をひくことがある。むかしの女は、上布の女《ひと》でもなるみの浴衣でも、その點におろそかでなかつたやうである。無論足も綺麗に、指の爪もいふまでもなく氣をつけた。
上布を着た女《ひと》は、あたしの邊《ほと》りにも澤山ある。それなのに、どうした事かとかく連想は近松の「心中|宵庚申《よひかうしん》」の、八百屋の嫁御《よめご》お千代のところへ走つてゆく。お千代ひと
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