夏の女
長谷川時雨
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)上布《じやうふ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)心中|宵庚申《よひかうしん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)コチコチ[#「コチコチ」に傍点]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ぶら/\
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一夏、そのころ在阪の秋江氏から、なるみの浴衣の江戸もよいが、上布《じやうふ》を着た上方の女の夏姿をよりよしと思ふといふ葉書が來たことがある。ふといま、そのことを思ひだした。
上布には、くつきりした頸《えり》あし、むつちりした乳房のあたりの豐けさをおもはされる。落附いた御内室《ごないぎ》さんである。なるみの浴衣は洗ひがみの、脊のすらりとした、といつて、お尻に女らしい艶やかさをうしなはない、なで肩を思はせる。前の女は、すこしばかり耳が肉ついてゐても目立たないが、後のは、あんまり大きかつたり、平べつたかつたり、ひつついた貧弱なのだつたりしては困る。花片の散りたてのやうな清新さが耳になくてはならない。鼻には神經が見える女《ひと》でも、とかく耳は留守のことが多い。生きてゐない。
男の耳はかくされる事がなくて續いて來たせゐか生々としてゐる。それが、どんな老爺《おぢい》さんでも、大きすぎても、厚つべつたくても、顏とおなじ調子に呼吸をしてゐる。まして若い男のは生々と動き働きかける。
耳が動くといふと猫のやうだと、若い少女《むすめ》は笑つてしまふかもしれなが[#「しれなが」はママ]、鬢でかくして來たくせがついて、とかく女の耳は愚圖《のろま》つたらしい。大切なところであつて、その耳朶は美容にも關係するのに、晩には卷いて寢るリボン一本よりもおろそかにされはしないだらうか。
男でも女でも耳朶が赤く匂つて透いて見える時は、その人の容貌《きりやう》よりも、美しく目をひくことがある。むかしの女は、上布の女《ひと》でもなるみの浴衣でも、その點におろそかでなかつたやうである。無論足も綺麗に、指の爪もいふまでもなく氣をつけた。
上布を着た女《ひと》は、あたしの邊《ほと》りにも澤山ある。それなのに、どうした事かとかく連想は近松の「心中|宵庚申《よひかうしん》」の、八百屋の嫁御《よめご》お千代のところへ走つてゆく。お千代ひとりが着たかのやうに――
よく思へば、八百屋の嫁御風情が、ふだん着にぞべらとしてゐたかどうかさへわからないのだが、お千代の、色の白い、ぽつてりとした、滴るやうな、女盛りの體に、紅の襟うらの透いた紺かたびらは、ほのぐらい店の隅の青物と、行燈の光りとに和して、なまめかしい匂ひがただよつてくる。堅油に艶をだした島田くづし、鼈甲の笄に白丈長《しろたけなが》――そこまでも見えてくると、彼女には、笑ふと絲切り齒が見えて、ちよいと片靨さへあつたやうに思はれる。柔かい肉附きにうるほひのある、夫半兵衞の目からばかりでなく、此世にはおいてゆきにくい手ざはりを感じさせる。姑の妬氣も、ただそれだけの感觸からだけでもあつたらうとうなづかされもする。
帶のしめかたを、堅くもなくゆるくもなく、崩れさうには見えずにコチコチ[#「コチコチ」に傍点]とさせず、褄もゆるやかでありながら、見る目はづかしいほどに蹴出しもせず、日傘を斜めにすらりと立つたかたびらの女、金魚鉢をかきまはさうとする乳のみ子を片手に仰向いて、話しかけながら鬢の櫛をさしこんでゐる女――かたびらは、古い風俗繪の大家が、好んで肩、胸、二の腕、腰の丸味を描き現し、あじあはせてゐる。
紀の國屋源之助が、ひつかけ帶の結びかたがやかましいといふことを聞いたのは、ずつと前のことである。もうかれこれ二十年も前のことであつたらうか、故左團次の夢の市兵衞の女房をした時の印象がぼんやりとうかんでくる。紀の國屋の衣裳かたの胸に針が光つたのを、誰かが咎めたときに、太夫が帶の結びかたがやかましいのでね、といつてゐたやうにおぼえてゐる。源之助のひつかけ[#「ひつかけ」に傍点]ほどよい恰好なのは見たことがない。男優ゆゑほんものの結びかたよりは、よほど長めでなければ、脊すがらとつろく[#「つろく」に傍点]しない。それがいかにも、解けもせずよい具合に結べてゐる。だらしない感じなぞをすこしも與へずに、いかにもきりりつとした、氣の利いた姿であつた。思へばあの後つきは、帶の結びかたひとつで色氣をもたせてゐたといつてもよいほどであつた。その後、多くのひつかけ[#「ひつかけ」に傍点]を舞臺の上で見るが、河合のも、喜多村のも、梅幸のもあれほどにはどうしてもゆかない。梅幸のは上品がつきまとひ、河合、喜多村のには、どうも水ぎはがたたない。それはよんどころないことかも知れない。上布
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